筒井順慶とは何者か『筒井順慶』筒井康隆


洞ヶ峠を決め込む。日和見的な態度をとること、という意味を持つ故事成語である。筒井順慶とは、その故事成語が生まれる元となった人物だ。

 

時は戦国時代。圧倒的な戦力を有していた稀代の武将、織田信長が、本能寺にて没した。彼を倒したのが彼の家臣であった明智光秀である。

 

「これで晴れて俺が天下人だ」

 

「しかし、まだ秀吉の奴めがおりまする」

 

「なあに、奴なら今は毛利の城とにらめっこよ。あの猿が身動きできない間に他の奴らを俺の側につかせていけばよい」

 

「光秀様!」そこに駆け込んできたのは伝令である。「大変でございます!」

 

「なんだ騒々しい、どうかしたか」

 

「高松城を攻めていた秀吉が毛利と和平を結んで凄まじい速度でここに向かっていると」

 

「なんだと!」驚愕のあまり光秀は飛び上がった。

 

「うむむ、いや、まだだ、まだ大丈夫。俺にはまだ味方がいる」

 

「それはまさか、筒井順慶殿のことでしょうか」

 

「そうだ。奴が松永と戦っている時に俺は散々便宜を図っていたのだから、奴は俺に借りがあるはず。普段から仲良くしていたのだし、俺の味方をしてくれるだろう」光秀はにやりほくそ笑んだ。

 

「書状は送ったか?」

 

「『俺は誰の味方もしません』という返事が返ってきましたね」

 

「馬鹿な! なぜだ!」光秀はあまりの怒りに顔を真っ赤にして地団太を踏んだ。

 

「おのれ奴め! 脅して無理にでも味方にしてやる。奴は洞ヶ峠にいるのだろう! ただちにそこに向かうぞ!」

 

「その必要はありません」

 

「なぜだ!」

 

「ここが洞ヶ峠だからです。史実では光秀軍がいたそうで、どうやら順慶が洞ヶ峠にいたというのは、誤りだとのことですな」

 

「それは確かか」

 

「ええと、筒井康隆氏の『筒井順慶』という本にはそう書かれております」

 

「なんだその本は」

 

「筒井家の子孫である作者が筒井順慶の小説を書くことになり、彼がどんな人物かを探る、という作品です」

 

「筒井家の子孫。じゃあ俺が筒井を討てばその小説は書かれなくなるのか」

 

「いえ、実はそれもフィクションでありまして、筒井康隆氏は筒井順慶の子孫というわけではないそうです」

 

「なんだややこしい。ならば正しいとは限らぬではないか」

 

「それで言うなら光秀様の史料こそ出鱈目ばかりですが」

 

出自も謎、本能寺の変の目的も明らかでなく、さらには実際に討たれたのは影武者で、南光坊天海として名と姿を変えていたという生存説すらある。

 

「性格もすこぶる悪く書かれていますな。いやぁ、存外に正しく伝わるもので」

 

「なんだと」

 

「ほ、ほら、褒めているのもいくつかありますよ。城づくりがうまかった、とか、才能に溢れていた、とか」家臣はだらだらと滝のような汗を流しながら慌てて言った。

 

「ふん、まあいい。とにかく、筒井は動かないのだな?」

 

「ええ、日和見していたことだけは確かなようです」

 

「それなら、もうひとりの細川殿に期待しよう」

 

「光秀様!」再び伝令が飛び込んでくる。その顔は蒼白で、恐怖に染まっていた。

 

「秀吉の軍が押し寄せてきました! もうすぐそこまで来ています!」

 

そう言った途端、横合いから槍や、刀が、光秀をめがけて飛び込んできた。どうやら生存説というのは、この中では出鱈目であったようである。

 

 

日和見順慶

 

作者自身が、自分の作品の中に主役として登場し、演技を始めるというのは、いいことなのか、悪いことなのか。

 

この小説にも作者自身が登場するが、それは物語の都合上しかたのないことなのだということを、まず知っておいていただきたい。

 

ある日おれは家の近所の喫茶店で、ひとりの女性を待っていた。今日やってくる女性は友人ではなく、編集者の方である。

 

約束の時間を十分ほど過ぎた時、藤田電子はやってきた。「お待たせしちゃって」電子は息をはずませながら、おれの正面の椅子に腰をおろした。

 

ウエイトレスにコーヒーを注文するなり、電子はおれに向き直って原稿の催促をはじめた。「この前は、あと百枚ほどだっていってたわね。もう出来たでしょ」

 

「まだだ」おれは彼女の格好のいい唇からあわてて眼をそらし、あらぬ方を睨みつけた。「書き直しばかりしているんでね」

 

「うそよ」彼女は何もかも知っているという様子でうなずいた。「それはうそよ」

 

「なぜだい」おれは、やっと笑うことができた。「なぜ、そう思う」

 

「あなたがあの長篇を書き出したのは二年前。あなたは修文社の倉橋さんと会い、その長篇のことを話した。倉橋さんは気乗り薄に、完成したら見せてくれといった」

 

「いや。それはちがう」おれはコーヒーにむせながらかぶりを振った。「そうじゃない」

 

「そしてある日、長篇を頼みに来た八木書房の藤田電子と会った。あたなはたちまちその色香に迷い、倉橋さんとの約束を都合よく忘れてしまった」

 

「ひどいうぬぼれだ」

 

「わたしに約束した直後、倉橋さんから催促があった。さてさてどっちに渡すべきか。義理と人情の板挟み、とっくに完成した原稿をかかえて、あなたは今おろおろしながらひとりで悩んでるんでしょ」一気にしゃべり終わり、彼女はコーヒーをブラックでぐいと飲みほした。

 

 

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