Web作家と編集者の再生の物語『ミュゲ書房』伊藤調


作家になりたい。そう思うようになったのは、高校生の頃だ。しかし、最近、その夢に疑問を持つようになった。それで本当にいいのか。それは本当に、私のやりたいことなのか。

 

本を読むのが好きだった私が、自分の手で小説を書くようになったのは高校生の頃だった。今ではあまりにも稚拙なもので、それすらも完成までいかずにやめてしまった。

 

本格的に書くようになったのは大学のサークル活動だった。小説投稿サイトにも、投稿するようになった。人気が出たわけではないが、自分なりには満足いくくらいには読んでもらえたと思う。

 

小説投稿サイトは作家へとつながるひとつの道だ。最近では、人気のWeb小説作家が次々と書籍化して作家デビューを果たしている。彼らに嫉妬し、憧れていた。

 

しかし、そんな姿に疑問を覚えるようになったのは、最近のことである。きっかけは、伊藤調先生の『ミュゲ書房』を読んだことだった。

 

主人公は大手出版社の編集者だった宮本章。彼は勤めていた出版社を辞職し、北海道の祖父が経営していた「ミュゲ書房」という書店を継ぐことになった。

 

彼がどうして安定している大企業を辞職し、小さな書店を継ぐようなことをしたのか。それは、彼が担当していた広川蒼汰という才能に溢れたWeb作家を、潰してしまったからだった。

 

心に後悔と傷を抱えた彼は、読書家でありミュゲ書房の常連でもある女子高生、永瀬桃とともに、ミュゲ書房の活気を取り戻そうと奮闘する。

 

「ミュゲ書房」という地方の小さな書店のどこかレトロな雰囲気と主人公の章の奮闘が魅力の作品だが、私が印象強く感じたのは、また別のところにあった。

 

この作品では、編集者が主人公ということもあり、出版業界の裏側が垣間見えるようになっている。そこはどうやら、私が想像していたような輝かしい世界ではないらしい。

 

大賞を受賞し、書籍化することになったWeb作家の広川蒼汰。しかし、彼の作品は出版社の意向に合わなかったため、大幅に修正を加えるよう指示が与えられた。

 

しかし、彼は必死に改稿に励んだにもかかわらず、書籍化は取り止めになったのだ。その事件は、章の心にも広川蒼汰の心にも深い傷を残すこととなった。

 

小説は、作家の思想や思い、感情、夢が込められた、本人にとってはかけがえのないものである。しかし、出版社にとってそれは、ただの商品でしかない。

 

出版社にしてみれば、書籍化するには売れる作品でなければならないのだ。作中で悪役とされる後藤編集長の考え方は憎らしく描かれているが、彼は編集者として一般的な意見を言っているのだと、私は感じた。

 

本を出版する。一見輝かしいこの成果の裏には、生々しい乖離が横たわっている。小説は理想であり、書籍化は現実だ。売れなければ、現実には評価されない。

 

そのために編集者はいるのだ。作者の頭の中を描いている小説を、現実世界に持ち込む。しかし、そのためには、そのままの姿ではいけない。世間に受け入れられるような形にすることが必要となる。

 

しかし、私は思うのだ。果たしてそれは、その人の「作品」だと、本当に呼べるのだろうか、と。世間に認められる形に歪曲された自分の思想。それはすでに、自分の唯一ではなくなっているのではないか。

 

そう思った途端、私の中の、作家になりたいという想いは消えていた。そうだ。私の目指すことは、小説家として生きていくことではない。

 

私はただ、自分の好きなように、ひたすらに物語が書きたい。それだけなのだ。夢から逃げた負け犬だと罵るならば、それもいいだろう。私は、自分の自己満足のためだけに書く。それが、私の目指す物語だ。

 

もちろん、編集者もまた、必要な存在だと思う。作家、編集者、装丁家、イラストレーター、書店員……一冊の本が世に出るには、多くの人の情熱が関わっている。それもまた、素晴らしいひとつの物語だろう。

 

私は、曇っていた視界がすっと晴れたような気持ちよさを感じた。『ミュゲ書房』。物語としてもおもしろかったけれど、私にとってその本は、それ以上に大切なことを教えてくれた一冊だ。

 

 

ミュゲ書房の奮闘

 

徹夜明けのその日、後藤編集長を見ると、俺はデスクの引き出しにしのばせていた退職願を握り締めて後を追った。ドアを開けると、編集長は手を止め、こちらをにらんだ。

 

「どうした」

 

鋭い眼光に気圧されそうになりながらも、退職願を差し出して頭を下げる。「辞めさせてください」

 

「理由は」

 

「向いていないので」

 

「広川蒼汰のこと、気にしてるのか」

 

一瞬、否定したい衝動に駆られた。青臭いと思われるのが癪だったから。だがもう辞めるのだ、どう思われようが知ったことではない。

 

「――はい」

 

「……勝手にしろ」

 

編集長は俺の手から退職願をもぎ取ってぐしゃりとジャケットの内ポケットに押し込むと、乱暴な足取りで出ていった。

 

これまで五年間がむしゃらに働いてきたこと、さらにいえば業界最大手の丸山出版に入社するために学生時代にした努力、そのすべてがこの瞬間に水の泡になった。

 

母から電話があったのは一か月後、引継ぎを終え、有休消化期間に入って間もなくのことだった。

 

「おじいちゃんの容体が急変したの。できるだけ早くこっちに来なさい」

 

北海道でひとり暮らしをしているじいちゃんが風邪をこじらせて入院し、母が看病のために仕事を休んでA市に滞在しているのは聞いていたが、まさかこんなことになるとは――。

 

「ありがとう。店のことは――任せる――楽しかったなあ」それが最後の言葉だった。

 

じいちゃんは司書として定年まで働いたのち、小さな書店を開業した。ばあちゃんとアイディアを出し合ってじっくり準備を進め、ミュゲ書房が誕生したのは二十年前のことだ。

 

 

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