はっと飛び起きる。少し遅れて、自分が今さっきまで寝ていたことを思い出した。ほうと息を吐いて、今しがた見ていた夢を思い返す。窓の外はまだ暗かった。
夢の中で、私は知らない部屋にいた。自分の住んでいるアパートの一室には似ても似つかない、昔ながらの日本家屋のような部屋である。
私の目の前には、一人の男が文机に向かって原稿用紙に一心不乱に書き殴っている。髭を生やし、神経質そうに目を忙しなく動かす男である。知り合いではない。だが、どういうわけか、私はその男を知っているような気がした。
男には私が見えていないようだった。話しかけようとするが、声が出ない。あの、と肩を叩こうとすると、手に何かが触れた。見ると、原稿用紙である。男が書いたものであるらしい。
読んでみると、それはどうやら小説のようである。冒頭の方には、「こんな夢を見た」という一節が書かれている。その言葉を、私は聞いたことが、いや、見たことがあった。
夏目漱石の『夢十夜』だ。「こんな夢を見た」から始まる短編集。幻想的で脈絡がなく、少し不気味な雰囲気があるそれらの短編は、まさしく夢をそのまま小説にしたような感覚を覚えた。
印象が強く、よく覚えているのは第一夜である。その夢は、仰向けになっている女の枕元に自分がいるところから始まる。
女は「私はもう死にます」という。そして、彼女は自分が亡くなった後のことを指示してくる。墓に埋めて、その傍で百年待っていてくれ、というのだ。
そんなこと、できるわけがないじゃないか。とは言わない。なにせ、これは夢なのだから。彼は「わかった」と答える。女は眠るようにこと切れた。
彼はその後、女の言いつけ通りに墓の傍で待ち続け、やがて女に騙されたのではないかと思い始める頃に、百年経っていることに気がつく。
初めてこの作品を読んだのは学生の頃だったように思う。とても美しい話だと、その当時は感心していた。けれど、そんな話ばかりではない。第三夜は、少し不気味な話だったはずだ。
夢なのもあって、とにかく不条理で、道理が通っていない。百年経つのもあっという間である。けれど、その美しく不気味な雰囲気は、当時の、そして今の私をも魅了し続けている。
そうだ、『夢十夜』。私はつい最近、いや、まさに今、この本を読んでいたのではなかったか。原稿用紙をぼんやりと眺めながら、私はふと思う。
不意に、視線を感じた。原稿用紙から視線を上げてみると、さっきまでは一心不乱に書き殴っていた男が、私をじっと見据えている。
彼は怒っているわけではない。また、不機嫌そうなわけでもない。責めるような言葉を発しているわけでもない。無言である。けれど、どうしてだか、私はその瞬間、彼が恐ろしくてたまらなくなっていた。
何か言い訳をしなければ。心はそう焦っていても、一向に言葉は出てこなかった。そうだ、何か。何かを言わなければ。
そこで、はっと目が覚めた、というわけだ。枕もとには、夏目漱石の『夢十夜』が置かれている。昨日は、この本を読みながら眠りについたのだ。あんな夢を見たのもそのせいだろう。
ああ、やれやれ、と思いながら部屋の電気をつけて、驚いた。部屋に、私以外の人間がいたからである。
髭を生やしているその男は、私の知り合いではない。けれど、私はその男を知っていた。なにせ、さっき会っていたからだ。夢の中で。
彼は今、文机に向かってはいない。その視線は紛れもなく、私の方を見ている。私はまた、言葉が出てこなくなった。彼が口を開く。
「君はどんな夢を見たのかね」
こんな夢を見た
こんな夢を見た。
腕組みをして枕元に座っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますという。
女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色が程よく差して、唇の色が無論赤い。到底死にそうには見えない。
しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきりいった。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかねと上から覗き込むようにして聞いてみた。
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写っているじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。しばらくして、女がまたこういった。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちてくる星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
自分は、何時逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。あなた、待っていられますか」
自分は黙って頷いた。女は静かな調子を一段張り上げて、「百年待っていて下さい」と思い切った声でいった。
「百年、私の墓の傍に座って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
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