僕はコーシローのことが羨ましかった。ハチコウのように名が残ったわけではない。タロとジロのような苛烈な生き様を送ったわけでもない。だが、もっとも人に寄り添ったのは、彼だろうと思うから。
僕のご主人は『吾輩は猫である』が愛読書である。そのことが悔しくて、僕は彼の膝に飛び乗って読書の邪魔をした。彼は仕方なさそうに笑って、けれど本を脇に置いて僕の耳の裏を撫でてくれる。あまりに気持ち良くて僕は目を閉じた。
散歩に連れて行ってもらった時、よく他の犬と話すことがあるのだけれど、どうやら誰も彼もがご主人のように本を読むわけではないらしい。ましてや、僕のように「本好きの犬」なんて他に会ったことがなかった。
だから、僕の憧れの犬はコーシローだと言っても、誰にも通じないのが少し寂しい。ハチコウやタロジロはやっぱり人気で。僕が言うと、途端にみんなの顔にブルドッグみたいな皴が寄るのが申し訳なく思う。でも、それが本心だし。
ご主人が読んでいた『犬がいた季節』は、読んだその時から僕が一番好きな本になった。表紙に書かれている小さな白い犬は、どこか小さい頃の僕に似ている。
その犬の名前は、元々シロというらしい。でも、作中ではもっぱらコーシローと呼ばれている。彼は飼い主に捨てられて、汚れた姿で学校に迷い込んだ。その場面は何度読んでも心臓がきりきり痛んで、思わず吠えたくなるくらい哀しい。
学校は、人間の子どもたちが一か所に集まって勉強するところである。コーシローが迷い込んだのは、その中でも勉強熱心な進学校の、美術部というところだった。
生徒たちの尽力によって、コーシローはそのまま「新たな飼い主が見つかるまで」という条件で、学校で飼うことになる。彼の世話をする係である「コーシロー会」はこうして発足された。
その時の生徒のひとりが、塩見優花という女の子。彼女は東京に進学することを希望していたけれど、実家のパン屋を切り盛りしている祖父母や兄から反対されていた。
そんな時、彼女は同じ美術部で、コーシローの名前の元になった早瀬光司郎に淡い恋心を寄せる。彼もまた、彼女に想いを寄せていた。
そして、優花は父と母に背を押してもらって、東京の大学に合格。光司郎は志望していた美術大学に落ちて、自分の道を探すことになる。
卒業の日、とうとう二人は想いを伝え合うこともないまま、別れることになった。その時の光司郎の切ない想いときたら、もしも僕が人間だったら泣いていたかもしれないね。
そして時は流れ、いろんな生徒たちが三年間の青春を過ごし、卒業していく。コーシローは彼らとともに青春の時を過ごした。彼らを慈しみ、愛しながらも、コーシローの胸にはいつも懐かしい花の香りがある。
そして、その香りが、突然戻ってきた。すでに老犬となっていたコーシローはその香りの中に飛び込む。優花が帰ってきたのだ。大人になり、教師となって。
僕が一番好きなのは、人間の光司郎が描いたコーシローの絵が、時代を超えてつながっていくシーン。時間がどれだけ過ぎても変わることがなく、コーシローはずっと絵の中で彼らを優しく見つめ続けている。
僕はもちろんご主人のことが大好き。他の犬も自分のご主人を愛しているんだと思う。コーシローは「学校の生徒たち」というたくさんのご主人を持っているけれど、彼の心の中にはずっと優花の姿があった。その健気さが、どうにも切ない。
ご主人の頬を、愛を込めて舐める。あの物語を思い出すと、とにかくご主人に甘えたくなってたまらなくなるんだ。僕はきっとご主人よりも早くいなくなっちゃう。そのことを、知っているから。
誰よりもたくさんのご主人に囲まれて、幸せな時間を過ごしたコーシロー。きっと彼も人間が大好きだった。だから、彼みたいに僕も、ご主人にたくさんの「好き」をぶつけるんだ。
時が流れても変わらないもの
シロー、シローという声に応えて尻尾を振ると、いつも頭を撫でてもらえた。大きな手の時もあるし、小さな手の時もある。
好きなものはミルク。小さな手がくれるパン。毎日、夕方になると、小さな手がパンをミルクにひたして食べさせてくれる。
今日もそれを楽しみに寝ていたところ、突然、あたりが暗くなった。不安になって吠えてみた。ところが何の反応もない。それから身体がずっと揺れ続け、気が付くと今度はまぶしい光の中にいた。
「ごめんね、シロ。うちじゃやっぱり飼えなくて」
嗅いだことのない匂いと風に身体が震える。それでも聞き慣れた声に勇気づけられ、いつものように尻尾を振った。
「悪く思わないでね。お前は賢いから、自分で安全なところに行けるだろ。優しい人に拾ってもらいな。ね、シロ」
シロと呼ばれて、再び尻尾を振る。走っていくその人についていくと「シッ、シッ」と声がした。
「ついてくるな! お前はもう自由なんだよ、ほら! これあげる! 取っておいで!」
投げられたボールを追いかけた。それをくわえて戻ると、いつもみんなに喜ばれる。必死で追いかけ、ボールをくわえた。振り返ったが誰もいない。あたりを走り回ったが、嗅ぎ慣れた匂いもない。
地面を嗅ぎながら歩いていくと、大きな物音がした。すさまじい勢いで、目の前をたくさんの黒い輪がころがっていく。無我夢中で走った。しかし、どこまで行っても、あの匂いも声も見つからない。
歩き疲れてよろめいたとき、身体が宙に浮いた。女が顎の下をくすぐった。その手のやわらかさに、わずかに尻尾を振る。
「おっ、ここハチコウか。ちょうどいいや、ここに入れとけ」
地面に下ろされると、大勢の人の匂いがした。そのなかに、なつかしい匂いがかすかにある。奥に進むにつれ、それはますます濃くなっていった。
(パンのニオイ……)
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