今日の飯のまた薄粥一杯。大判小判を求めるなんぞ武士の風上にもおけぬ卑しきことである、そう言い張って幾月ばかりか。米はいよいよ底を尽き、もう粒すらもない。魂だけでは飯すら食えぬ。なんと生きにくい世の中よ。
「だから金子を手に入れればよいと言っているではないか。俺の知り合いに頼めば、仕事くらいはくれようぞ。な、な、意地など張らずに頼んではみんか?」
宗右衛門が俺に言う。もうかれこれ五回目である。彼は江戸商人の跡継ぎで、昔からの付き合いだ。だが、こういう時、やはりこやつは武士とは違うのだと思わざるを得ない。
商人は金を求める。それは生業である。だが、金を求めるのは賤しいことよ。利を求むれば仁義に悖るのが世の常である。
俺とて一介の武士。主君の藩がとり潰しになって以来、浪人として仕える家を持たない流浪の身になれど、かつて抱いた忠義までもをなくしたわけではない。俺の身を支えるのは、端くれなれども武士としての魂である。
「再三言うておる。俺は武士だ。武士は戦場こそ居場所よ。戦にてお国のために死ぬことこそが武士の生き様。この手は仕事をするためにあるのではない。主君のために刀を振るうためにあるのだ」
「だがよう、お前さん、このままでは戦どころじゃあるまい。ものを食わねばあっという間に骨と皮だぜ。そもそも、戦なんてここ何年も起こってはおらぬではないか」
「ぐっ……」
まさしく彼の言う通りであった。もはや時代は変わった。武士の時代は終わったのだ。つくづくに思う、俺は生まれる時代を間違えたのだと。清貧は美徳なれど、そのまま死んでは意味がない。そう言われる時代である。だが、それでは武士の魂とは、何であるか。
「ええい! なればここにて切腹いたそう! 宗右衛門、介錯を!」
「ま、待て待て、早まるな!」
宗右衛門に背後から絡み取られ、暫し暴れているうちに腹の虫も騒ぎだして、ようよう俺は正気に戻った。互いに荒い息を吐きながら座り込む。
「はあ、しょうがねぇ。他ならぬお前さんのためだ。ここは俺が一丁脱いでやらあ」
そういうや否や、彼は自らの懐から何やら一冊の書を取り出した。見れば、そこには『論語と算盤』と書かれている。
「なあ、渋沢栄一という男を知っているかい?」
「知らぬ。何者か」
「農民から武士になり、幕臣にまでなったお人よ。晩年は、お国のために実業家として力を尽くしたとか」
聞いた途端、俺は顔をしかめる。武士が金儲けに走るなど、賤しいことだ。しかも、あろうことか幕臣にまでなったほどの男が、なぜ。
「まあ聞け。この本にはな、そのお人の考え方が詰まってんのさ。ここにはこうある。『金銭を取り扱うことがなぜ賤しいのか。君のように金銭を賤しんでいては、国家は立ち行かない』と」
「利を求めるには時として、道義に悖る行いをもしなければならぬ。賤しいに決まっているではないか。要するに、そやつは金が大事であると、武士の魂を捨てたのよ」
「いや、そうじゃないさ。この表題は『論語と算盤』だ。いわば、算盤は利を求める商人の心得。対して論語は、いわゆる儒教、侍の魂さ。つまり、士魂商才、武士としての道義と、商人の利潤、そのどちらも必要なのだと言っているのだ」
「ふん、それはあくまでも理想論ではないか。現実にできるわけがない」
「考えてもみよ。そのことを、このお人が自らやっているではないか」
まあ、この本はお前に貸してやるから、よくよく読んで学ぶといい。宗右衛門はそう言って帰っていった。後に残されたのは一冊の書である。俺は、その頁をめくった。途端、目に飛び込んできたのは、ひとつの語である。
『わしの主義は、「何事も誠実さを基準とする」ということに外ならない』
思わず喉の奥から唸る。誠実さ。この書の中に、何度か出てきた。道義に悖る行いをすれば失敗する。何事も誠実に臨み、信用を得ることで道が開けるのだと、その書は述べていた。
なるほど、仁義と利潤、こういうことか。ようやく合点がいった。高潔な精神を持っていようとも現実に根ざしておらねば立ち行かず、優れた商才を持っていようとも不実であれば道を間違う。
どちらか一方、ではない。どちらも大事なのだ。士魂を以て商才を成す。現実社会において生きることのできる道徳に基づいた商業。それこそが、お国の土台となる。
それは、遠い道のように思える。金を前にすれば人心は揺らぐもの。高潔な精神は貧乏を招く。だが、それが実現されれば、どんな未来が待ち受けているのか。
武士の世は終わった。そう思っていた。だが、彼の言葉にすれば違うのだ。刀ではなく算盤を手に握るようになっても、俺たちの引き継いできた魂は、俺たちの根幹に刻まれている。
商業と道徳の融和
書名の『論語と算盤』だけからの印象では、算盤すなわち経済活動に対して『論語』によって意味づけているという感じである。確かにそういう面がある。しかし、渋沢栄一の意図はもっと広く深い。
渋沢は、彼の在世したころの日本を次のように述べている。現実を念頭に置かず、道徳のための道徳教育というような原理主義的であったため、空理空論となっていた。いわゆる道学であり、現実と遊離していたとする。これは国家を衰弱させる。
道徳なき商業における拝金主義と、空理空論の道徳論者の商業蔑視と、この両者に引き裂かれている実情に対して、渋沢は〈現実社会において生きることのできる道徳に基づいた商業〉をめざしたのである。
それを可能とする接着剤、商業と道徳との接着剤として、渋沢が選んだのが儒教であった。ただし、その儒教は儒教の古典そのものをすなおに読もうとする。渋沢は言う、本文が述べていることは、後世の解釈を抜きにしてそのまま読んで納得できるではないか、と。
このような立場で、渋沢はいろいろな現実問題を儒教の古典の知恵を引きながら論じている。その意味では、本書は、人生論でもあり、人間論でもあり、経営哲学でもあり、そして利殖とのかかわりを中心にして説く道徳論である。
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