一万円に描かれている人は誰でしょう。福沢諭吉です、と、私は答えた。じゃあ、彼は何をした人でしょう。私はその問いに、答えることができなかった。
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。福沢諭吉の名言として、先生はその言葉を黒板に書いた。福沢諭吉が書いた『学問のすゝめ』という本の有名な一節らしい。他にも、慶應義塾大学の創設者でもあるようだ。
なんて、教えられたはいいものの、いまいちぴんとこなかった。つまり、平等を訴えた人なのだろうか。その『学問のすゝめ』とやらの一節のイメージは、そんな感じだった。
図書室の誰も来ないお気に入りの空間で、私は財布から一万円を取り出して眺めてみる。初めてまじまじと見たけれど、近所のおじさんみたいな顔だ。そんな偉業をした人とは思えない。
「誰が近所のおじさんだ」
渋い声が聞こえて、思わずぎょっとする。辺りを見渡してみるけれど、私以外には誰もいなかった。こっちだ、こっち。また聞こえた。見れば、一万円札の中の福沢諭吉の口が、動いている。
「ようやく気付いたか。そう、私だ。私が福沢諭吉である」
悲鳴を上げそうになって、理性と根性だけで呑み込んだ。図書室で騒いだら追い出されてしまう。これは夢か。夢なら醒めてくれ。
「せっかく出てやったのに失礼な。私は君の疑問に答えるためにこうして無理をしてまで来たのだぞ」
私の、疑問? 思わず諭吉を見る。
「そうだ。私について。そして私の考え方について。納得がいかない。そうだろう?」
思わず私は頷く。そうだ、納得がいっていなかった。そもそも、『学問のすゝめ』というタイトルに、平等なんて関係ないじゃないか。
「だから、ヒントをやろうと言うのだ。ちょうどよく、ここは図書室である。ならばあるはずだ。君、ちょっとあそこにある私の著書、『学問のすゝめ』を持ってきたまえ」
彼に命じられるままに、本棚に刺さっていた『学問のすゝめ』を手元に持ってくる。というか、ヒント? 本人なんだから、答えを教えてくれよ。私がそう考えると、彼は顔をしかめた。
「それだ、昨今の若者はその姿勢が良くない。すぐに答えを知ろうとする。大事なのはそこに至るまでの過程だ。自ら学び、考える。そしてようやく答えを知ることができる。学問とは、学び問うと書く。ほら、いいからさっさと読みたまえ」
そうして私は著者である本人に勧められるままに、『学問のすゝめ』を開いた。冒頭の文章が目に入る。授業で習った、『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』だ。
しかし、その先には続きがあった。『ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり』
学問を勤しんで物事をよく知るようになった人は身分の高い人になって富を得る。反対に、学がない人は身分が低く、貧乏になる。
つまり、『学問のすゝめ』はまさにタイトル通り。平等なんて訴えてない。ただ単に、身分というのは天から与えられるものではないと言っているだけ。
学問を修めるかどうかで、本当の身分が決まる。医者や政治家のように頭を使う人たちは身分が重くお金持ちになって、肉体労働をする人たちは身分が低く貧乏になる。身分が学問によって左右されると、この本は言っているのだ。
私は衝撃を受けた。身分による差別が当然だった当時からすれば、その内容はあまりにも異端だっただろう。そして、現代からしても、それは驚愕のものだ。
この本が説いているのは、つまり学問による実力主義である。そこには、些細な甘えすらもない。努力しない人に対してはどこまでも残酷で、一方、努力さえすれば誰でも成功を勝ち取れるのだ、と。
福沢諭吉は、身分制度に反対している平等主義者なのだと思っていた。身分差別に苦しむ人たちに仏の目を向ける優しい人なのだと思っていた。冒頭の文章だけを読んでいる現代の人たちは、多くがそう思い込んでいるのかもしれない。
でも、違う。むしろ逆だ。彼はとてつもなく苛烈で厳しい。一切の甘えを許さず、幸せになりたいのなら自分が努力するしかないのだ、と。逃げ場も言い訳も、彼は何ひとつ与えてくれない。
学問。彼の思想の頂点には、その言葉が燦然と輝いているのが見てとれた。そして、武士の世に生まれた彼にとって、それこそが日本をつくる刀だったのだ。
「ようやくわかったかね。ならばよい。これからもよく学び、よく考えたまえ。それこそが、君の道を切り開く」
どこかから声が聞こえた。はっと目を覚ます。いつの間にか、寝てしまっていたらしい。頭の下に敷いていたのは『学問のすゝめ』。そして、右手にはしっかりと、一万円を握っていた。
彼をじっと見つめる。ちっとも動きやしない。でも、私には彼が微笑んでいるように見えた。もうすぐその顔は渋沢栄一に変わってしまう。でも、きっと彼はずっと日本を見守ってくれているのだろう。
学問が日本を救う
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。
されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥の相違あるに似たるは何ぞや。
その次第甚だ明らかなり。人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。
また世の中にむつかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむつかしき仕事をする者を身分重き人と名付け、やすき仕事をする者を身分軽き人という。
すべて心を用い心配する仕事はむつかしくして、手足を用いる力役はやすし。故に、医者、学者、政府の役人などは、身分重くして貴き者というべし。
身分重くして貴ければ自ずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればその人に学問の力あるとなきとに由ってその相違も出来たるのみにて、天より定めたる約束にあらず。
天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなりと。されば前にも言える通り、人は生れながらにして貴賤貧富の別なし。
ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
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