破ってはならないミステリの約束事とは?『書きたい人のためのミステリ入門』新井久幸


部屋に男が倒れている。彼は既に事切れていた。鹿撃ち帽を被り、パイプを口に咥えた男、すなわち私は被疑者諸君の視線が集まる中、言い放った。「犯人は、この中にいる」

 

「犯人はこの中にいる、だと。バカな。じゃあ、窓の外に続くあの足跡は何だっていうんだよ」被疑者のひとりである髭面の男が言った。

 

「あれはフェイクですよ。犯人が外に出たと思わせるための、ね」

 

「な、なんでそう言い切れるのよ」白いコートを着た女が言う。

 

「証拠は、これですよ」私は懐から一冊の本を取り出して見せた。「なんだそれは?」怪訝な声が髭面の男から零れる。

 

「これは新井久幸先生の『書きたい人のためのミステリ入門』です。具体的な例を出しつつ、ミステリのルールを解説してくれています。私の愛読書ですよ」

 

「それが何だっていうんだい」ずっと黙っていた気障な青年が言う。

 

「いいですか、今この場には、私を含めて五人の人物がいます。ひとりは被害者であり、既に言葉を喋らない、セリフがないから除外するとして、残りは四人」

 

気障な青年、白いコートを着た女性、髭面の男、そして、探偵である私。彼らは事件が起こった時間、屋敷の中にいた人間たちである。

 

「ミステリには、いくつもの約束事がある。その中のひとつに、『容疑者は何人かに絞り込むことができるようにする』というものがあります」

 

容疑者となる人間が増えれば増えるほど、ミステリは混雑していく。だからこそ、数人に絞り込むことは不可欠だ。「この町にいる人間の誰か」が犯人だと、対象が広すぎて推理ができない。キャラクターが増えると、初心者には難しくなる、という理由もあるが。

 

「今、容疑者となっているのは、探偵である私を除いて、ここにいる三人。これは間違いない。そして、三人ならばミステリを書いたことがない素人でもどうにか操ることができるだろう」

 

「あんたはなんで除外されているんだよ、探偵さんよぉ」髭面が言う。その口ぶりには、不機嫌な調子が隠れていなかった。犯人扱いされているのだから、それも当然かもしれない。

 

「私が視点を持っているからだ。もしも、私が犯人ならば、その辺りも地の文、いわゆるモノローグに書かれるはずだからな。そもそも、探偵役が犯人なわけがない。探偵は事件を解くための存在なのだから」

 

それに、窓の外にはほら、雪が降っている。大雪だ。到底人が窓から抜けたとしても、生きていける状況とも思えない。

 

「嘘だ。雪なんてさっきまでは降っていなかった。今まさに降ってきたんだ」

 

「インチキだ! インチキだ!」

 

「そうよ。こんなとってつけたようにクローズド・サークルにしようとしてもまかり通るものですか」

 

三人は口々に私を批判した。いや、私を批判しているのではない。彼らの憎悪の視線は私を通して、私の魂に宿る、いや、全ての魂に宿る「作者」という存在そのものに向けられているかのようだった。

 

私は焦る。このせいで作者の気まぐれが勝り、私が探偵役から外されてしまったら終わりである。この作品自体が無に帰すだろう。

 

「まあ待て、落ち着きたまえ。ここで揉めて何になる。私たちがいくら睨みつけようとも作者に届かないが、作者の指は我らの運命を変えるのだぞ。それを忘れてはならない」

 

ミステリの作者はあらゆる犯罪の手法を今日まで考えてきた。もう新しい、斬新な作品というものは出てこない。どうせ、この文章も曖昧にするか誤魔化すかで、最後になんとなく読後感のいい言葉で締めて、つまらない終わり方をするに違いないのだ。

 

さて、推理の時間だ。だが、ミステリを書いたことがない作者は、どうすればミステリが書けるのかわからなかった。だからこそ、本に頼ったわけだが。

 

ふと、思い出した。手の中に握る鈍器の感触。こめかみを伝う、汗。水音の混じった音とともに、膝を突き、倒れて動かなくなったあの男。

 

そうだ、この事件の犯人は、私なのだ。そのことを、私は書き出しを始める前の文章から認めていたのだった。『私が彼を殴った』と、書いたじゃないか。

 

ほら、やっぱり私が犯人にされた。作者に逆らうものではないのだ。彼らも今頃はきっと、ヒキガエルにでも変えられているに違いない。だが、せめて一矢報いるとしよう。

 

「ミステリのルールのひとつに、『地の文で噓をつかない』というものがあるな。あの本を読んだのだから知っているはずだ。だが、この文章の中では、地の文が嘘をついている。よって、この文章は、ミステリとしてルール違反だ。ざまあみろ。ざまあみろ」探偵は狂ったように呟いて笑った。

 

 

初心者が陥りやすいミステリのお約束

 

編集者として、二十年近く新人賞の事務局で下読みをしてきた。「新潮ミステリー倶楽部賞」「ホラーサスペンス大賞」「新潮エンターテインメント大賞」「新潮ミステリー大賞」等々だ。

 

何百本という応募原稿を読んできて、「惜しいなあ」と思うことがよくあった。それは突き詰めれば、「ミステリ的な手続き」に不備があったり、いわゆる「お約束」を踏まえていないことに起因する。

 

ミステリは、「暗黙の了解」の多いジャンルである。この本は、ミステリの「お約束」を、初心者向けにわかりやすく解説してみたい。

 

下読み経験を基にしているから、小説家を志す人には、多少なりとも参考になるだろう。また、「自分は読む専門だから」という人も、いや、そういう人こそ、是非、読んでみて欲しい。

 

読むと書くとは表裏一体。書き手が特に意識したり、苦労したりするポイントを知れば、読書は飛躍的に楽しくなる。書き手への理解が進み、ミステリの基礎体力がつけば、同じ作品でも、何が凄くて、どこが画期的なのか、読解の解像度は目に見えて上がるはずだ。

 

ここで書いたのは、編集者がどんなことを気にしているか、ということであり、小説を読み書きするうえでの基本的なセオリーである。

 

もちろん、小説にルールはなく自由に書けばいい、というのはその通りだ。ただし、破格が有効に機能するためには、基礎をきちんと踏まえることが必要となる。

 

本書で紹介した以外にも、面白いミステリは山ほどある。この本が、そういう出会いの一助になったり、書く側でも読む側でも、ひとつでもいいから何かの発見を提供できたのなら、とても嬉しい。

 

 

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