小説を書かねばならぬと思った。なぜならば、好きなあの子が「結婚するなら作家さんがいいな」と言ったからである。だが、そのためには致命的な問題があった。私は何よりも文章が下手なのである。
小学校の頃、作文の宿題は何よりも嫌いであった。頑張って書いたつもりでも作文用紙の半分くらいで精一杯。規定を満たすべくとにかく思いつくことをのべつまくなしに書いてかさ増しするものだから、いつだってクロワッサンみたいにスカスカの作文になる。
かといって、読書感想文ならいけるかと問われれば、そうはならない。読書感想文については、私の文は作文とは違ってひどく長く、冗長に冗長を重ねたものとなる。
なぜそうなるかというと、本の内容を細かく書こうとしてしまうからだ。もちろん、作文用紙数枚で足りるわけがない。書いている途中でティーチャーストップがかかることもしばしばあった。
とまあ、このようなエピソードを挙げていけばきりがない。そんな私が作家になるというのは、無謀な挑戦なのかもしれない。だが、仕方ないのだ。彼女がそう言ったのだから。
とはいえ、いきなり真っ白な原稿用紙を机の上に広げて「さあ、書くがよい」と見せられたところで、ド素人たる私に名作など書けるはずもない。とならば、何事もまず学ぶことこそが大切なのだろう。
そう考えて門戸を叩くことにしたのが、一軒の家である。看板には『小説道場』と書かれていた。ここでならば、小説を学ぶこともできるかもしれない。それはある種の天啓であった。
講師は森村誠一先生である。数多くの人気シリーズを生み出したミステリの名手。そのひとつである『悪魔の飽食』は、タブーとされていた旧日本軍の第731部隊に言及したことで大きな話題を呼んだ。
さて、意気勇んで踏み込み、門弟となった私であったが、先生の最初のひとことで私はさっそく度肝を抜かれることとなった。
「小説の書き方に鉄則はない」
鉄則がないとは、どういうことか。世のあらゆることには鉄則がある。スポーツにはルールが、社会には法律が、ゲームには定石が存在している。ならば、小説もあるのではないか。
だが、学んでいくうちにわかった。小説には本当に鉄則などないのだ。むしろ、芸術のひとつとして、従来ある鉄則を自らぶち破っていくことこそ、小説の真髄であるのだと感じた。
ともあれ、当時の私はまだまだ文章作法すらわからぬヒヨコ、「ここに来たのは間違いではなかったか」と自答を繰り返すばかりであった。
先生の言葉はさらに続く。「どんなに壮大な作品世界を抱えていても、表現しなければなんの意味もないのが芸術の特質である」
なるほど、その通りだ。思わず、今まで何度となく言い訳を自分の中で言い聞かせて逃げてきたのに、突然容赦のない図星を突かれたかのように胸が痛くなるが、きっと気のせいだろう。
小説に鉄則はない。だが、そのうえで書き方や作家のタイプ、果ては編集者や出版社のタイプなどさまざまな方面から「小説」というものについてアプローチしていく、というのがこの道場の趣旨であった。
小説について何も知らない私でもわかりやすく、それでいて面白い。特に、タイプ分けはなかなかに愉快であった。先生の意見には容赦がなく、辛辣で、それがむしろ心地よい。
小説について学び続ければ、私もいずれ小説が書けるようになるだろうか。いや、必ずなってみせる。私はそう心に誓った。
そういえば、どうして私はここの門戸を叩くことになったのだったか。今ではそれすらも覚えていない。だが、その決意が私の未来を大きく変えたのは、誰に憚るでもなく確かなことなのである。
小説を学ぶ
作家が十人いれば十色、百人いれば百の異なる小説作法がある。小説の書き方に鉄則はない。だれが、どんな書き方をしようと自由である。だが、鉄則がないということは、鉄則がないという鉄則もないことになって、永遠の自家撞着に陥ってしまう。
作家を志す動機はいろいろあるが、やむにやまれぬ表現欲をもつ人が多数派である。人間の三大本能は、食欲、性欲、そして表現欲である。表現欲は不特定多数の人間が集まらないと充足できない。
ものを書きたいという意欲は、ほとんどすべてこの表現欲に帰結する。社会に生活する者は、いずれも表現欲を持っているが、表現したものが作品として形となって残る作家は、その魅力に取り憑かれてしまう。
自分の表現したものが作品として実を結び、我が作品世界に多数の読者を招き入れる。作家としてこれに勝る喜びはない。
その魅力に取り憑かれた者は、一生忘れられなくなる。これが文学中毒である。まだ作品を一冊も出していない者でも、幻の作品の魅力に取り憑かれると、一生離れられなくなる。
どんなに壮大な作品世界を抱えていても、表現しなければなんの意味もないのが芸術の特質である。最近はそんな重苦しいものではなく、軽いノリからものを書く人も増えているが、自分の存在証明として書かなければならないというタイプに比べて、気迫がちがうようである。
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