伊藤野枝の真剣な戦い『風よあらしよ』村山由佳


大正時代、関東大震災が起きてすぐ、世情が不安定だった時代を裏付けるような、ひとつの事件が起こる。現代の人はその事件を、『甘粕事件』と呼んだ。

 

私が小説の題材のひとつとして調べた時は、その沿革までしか知ることはできなかった。アナキストの大杉栄とその妻である伊藤野枝が、憲兵大尉の甘粕正彦によって殺害された事件なのだという。

 

大杉栄は当時の無政府主義者の先鋒で、政府関係者からは目の敵にされていた。そのせいもあってか、現代であってもその真実にはいくつもの疑義が呈されている。

 

しかし、私の手が及ぶところで調べることができたのは、そこまでであった。これ以上知ることはできまいか。その本と出逢ったのは、半ば諦めかけていた、そんな時である。

 

村山由佳先生の『風よあらしよ』は、甘粕事件において大杉栄とともに殺害された被害者である伊藤野枝の生涯を鮮烈に描いた作品であった。

 

伊藤野枝は、数々のスキャンダルによって「悪魔」とさえ呼ばれて社会から忌み嫌われていた女性である。大杉栄との仲もかつての夫との不倫の末であり、同時に女性でありながら栄とともに無政府主義の急先鋒であった。

 

それだけでなく、平塚らいてうが立ち上げた『青鞜』を引き継いで女性解放運動に貢献するなど、女性の権利解放にも大きな影響を及ぼしている。

 

現代から見ても、彼女の視点は数世代先取りしていた。結婚制度の否定、廃娼、堕胎など、現代になってようやく叫ばれるようになった問題の数々に当時から目を向けている。現代ならば、いかに彼女の指摘が正鵠を射ていたかがわかるだろう。

 

しかし、それはあくまでも「情報」としての伊藤野枝である。『風よあらしよ』に描かれている彼女は、ひとりの女性として、たしかにその物語の中に生きていた。

 

女性であるがゆえの不平等や不自由に涙を流し、愛する男のために全てを捨てて、この国に虐げられている人たちのために命を燃やし、そして我が子を案じながらも命を散らされた。

 

社会活動家としてでもなく、作家としてでもなく、悪魔としてでもなく、悲劇の女性としてでもない、ただの「伊藤野枝」という女の、生きてきた証がそこにはあった。

 

その苛烈な運命にあった生き様が、私の心に、何かを残した。それは、社会と勇敢に戦った女性への畏敬の念か、はたまた事件を表面上だけ知って満足していた我が身への羞恥か。

 

「甘粕事件」が起こった当時は、大震災の影響で各地が混乱状態にあった。根拠のない噂が流布し、朝鮮人や無政府主義者が悲劇の元凶として不当な攻撃を受けたという。

 

しかし、当然、そこに明確な証拠はない。いわば、彼らは理不尽な現実への憎悪の矛先として選ばれ、生贄として国に命を奪われたのだ。

 

政府であれ、無政府主義者であれ、同じ国民であり、国を想う気持ちに変わりはない。たしかにアナキストである彼らは過激な活動家ではあったが、それらも全て日本という国を良くしたいという想いからの行動だった。

 

大震災という危機の中、国を想う彼らは同じ方向に向かうことだってできたはずなのに。そんなありえない現実を思うと、意味がないと知りつつもどうしようもない悔しさが湧き上がってくる。

 

肩書きや立場や性別、思想、国、人種、建前の全てを取り払ったその先にいるのは、誰もが同じ裸の人間である。そこに何の違いもない。そのことを、もっと多くの人に気付いてほしいと私は願う。

 

 

伊藤野枝の生涯

 

あらしが遠くに居座っていた。その日、東京の街をゆく人々はしばしば突風に煽られては足元をふらつかせた。強烈な陽射しが地面を炙る。熱をたっぷりとはらんだ風が、開け放った庭先から台所まで吹き込んで羽釜の下の炎を揺らす。

 

この調子では炊き上がりがむらになってしまうだろうが、かまうものか、食べられれば御の字だ。酢の物にするきゅうりをざくざくと刻む手を止め、野枝は庭を見やった。

 

大杉との間の初めての男児ネストルを出産したのが八月九日。この淀橋町柏木の家へ引っ越したのはたった数日前だから、住んでまだひと月とたっていない。

 

大杉ともども、住むところ住むところ官憲に追われては家移りを繰り返してきたおかげで、家財道具と呼べるものなど多くない。移ろうと思えばその日にでもまた動くことができる。

 

ただ、この三年間というもの毎年身ごもっては出産を繰り返したせいか、野枝の肉体はこれまでになく疲れていた。三十路までもうわずか、さすがに身体が変わってきたのを感じる。

 

背後の障子の陰で、ともに幼いエマとルイスが声をたてて笑うのが聞こえる。洗濯物をたたみ終わった大杉が、モト叔母と一緒にあやしてくれているのだろう。

 

まさかあの大杉栄が、とさそかし奇異に映ったのだろう。幸徳秋水亡き後、この国の社会主義運動家をとりまとめる危険人物――そんな彼が、ちいさな娘たちを膝にのせてあやし、いちいち細君に笑いかけているとは、と。

 

「そういえば魔子のやつ、まだ帰ってこないね」

 

物思いを破られ、野枝は振り向いた。障子の陰から、大杉が畳に手をついてこちらを覗いている。「あら……」柱のボンボン時計を見やった。「ほんとうだ」

 

「じゃあ、魔子ちゃんは私が迎えに行ってきますけん」

 

雪子がルイズをおぶって裏口から下駄をつっかけ、野枝が再び流しに向き直ろうとした時だ。かかとを木槌で連打されるような感触があった。怪訝に思って見下ろした途端、どん、と衝きあげられ、続いて、ゆうらりと揺れた。

 

「……じっ、地震か!」

 

大杉が立ち上がろうとして足を取られる。

 

 

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