私は疲れた身体を引きずって帰路についていた。雨上がりの水たまりに映る私の顔はまるで幽鬼のように顔色が悪い。
会社の人間関係。顧客からのクレーム。上司からの嫌味。それらがひとかたまりの精神的な疲労となって私の背中にのしかかっているようにも思えた。
ふと気がつけば、私は普段の帰路とは違う道を通ってしまっていた。人気のない閑静な裏通りである。
辺りの景色を見回していたら、ふと一軒の小さなお店が目に入った。
淡い桃色の、かわいらしいお店である。窓からはテーブルが並ぶ店内が少しだけ見えた。それはどうやら喫茶店のようである。
お店の中から心地よいハーブの香りが私を誘う。甘く爽やかな香りが疲れ切った身体に染み渡るような気がした。
気がつけば私はその喫茶店のドアに手を掛けていた。来客を知らせるためであろうベルが軽やかな音を立てる。
「いらっしゃいませ」
応対してくれたのは眼鏡をかけた三十代くらいの男性だった。柔らかい笑みに思わず安心感を覚える。
「あ、えっと」
衝動的に入ってしまったようなものだから、思わず言葉に詰まってしまう。しかし、彼の柔和な雰囲気に入っただけとも言いがたく、流されるように窓際の席に座った。
「どうぞ」
座り込んだまま黙っていた私に、彼は一杯のハーブティーを出してくれた。私は戸惑ったままに彼の顔を見上げる。
「え、あの、まだ頼んでないんですけど」
「サービスです。お代はいりませんので、どうぞ」
彼はにこりと微笑んでカウンターの奥に戻っていった。
テーブルに置かれたハーブティーからはリンゴのような香りが漂ってくる。私はこらえきれずにカップを手に取って、口の中にゆっくりと流し込んだ。
「……おいしい」
私はぽつりと呟いた。思わず口をついて出た本心からの言葉だった。
「そちらはカモミールティーです。リラックス作用があるので、疲れている時には癒されますよ」
疲れているようでしたので。そう言う彼に、私はそんなにわかりやすかったかと少し恥ずかしくなった。
しかし、包み込むような安心感とハーブの香りの脱力からだろうか、気がつけば私は仕事での悩みを打ち明けていた。
仕事になかなか慣れることができないでいること。会社での人間関係が上手くいっていないこと。仕事を続けることに自信を失っていること。
「……すみません、初対面なのに、こんな」
「いいんですよ」
はっと気づいて謝る私に、彼は笑顔で返してくれた。あなたみたいな方のためにこのカフェはあるのですから。
私は話しているうちに心が楽になっていることに気がついた。そうさせているのは彼の包容力のある雰囲気と、落ち着いた喫茶店の魅力があるからだろう。
お店の中に私以外の客はいない。いい雰囲気のお店なのに、稼ぎ時でもこの閑散ぶりは意外に思える。
「お客様、少ないでしょう」
「え、あ、えっと」
彼の苦笑に私は思わずしどろもどろになった。謝ろうとするも、動揺しすぎて言葉が出ない。その間にも彼は話を続ける。
「立地が立地なので、あまりお客様は多くありません。気に入ってくれた常連のお客様が何人か通ってくれてはいますが」
「どうして、こんなところで喫茶店を始めようと思ったんですか」
彼はどこか遠い目をしていた。それは過去を懐かしむ目だった。彼の目の前にはきっと、現在ではない、昔の喫茶店に戻っているのだろう。
人を幸せにする魔法
僕は魔法使いになりたかった。人を幸せにする魔法を使う、優しい魔法使いに。
僕がそんなことを思うようになったのは有間カオル先生の『魔法使いのハーブティー』を読んでからだった。
優しい暖かな物語は当時仕事で疲れ切っていた僕の心に、ひとつの光を与えてくれた。
自分の仕事は世の中のためになっているという自負があった。しかし、その本を読んだ時、僕は今までの自分に疑問を感じた。
僕が本当にやりたかったのは、世の中のためになることじゃあなくて、人のためになることだったんじゃあないか、と。
僕は決心を固めてそれまで続けていた仕事をやめた。生まれて初めてやりたいことがはっきりと見えた瞬間だった。
そして、土地を買って小さな喫茶店を開いた。でも、いろんな苦労したよ。経営の難しさを痛感することになった。
見ての通りお客様は少ない。立地が悪いものだから、そもそも店の前を人があまり通らないのだ。
それでも、たまに思い出したようにお客様が来てくれる。その中には常連になってくれる人も何人かいた。
前の仕事ほど稼ぎは良くない。でも、こうして人にハーブティーを出して、話をすることが何よりの楽しみになっていた。苦労はしたけど、後悔はない。
僕は目の前で僕の話に静かに耳を傾けている女性を見た。
入ってきた時にひどく疲れて見えた彼女は、すっかり落ち着いたのか穏やかな表情をしている。それが彼女の本来の顔なのだろう。
僕はあの頃に憧れた魔法使いには及ばないかもしれない。でも、僕の小さな魔法でも幸せになってくれる人がいるのなら、それ以上の幸せはない。
傷ついた少女が魔法使いの喫茶店で心を癒して成長していく
こんなに坂の多い街だとは思わなかった。藤原勇希は目の前に延びる坂、その先に繋がる抜けるような青空を恨めしげに見つめ、弱音交じりに文句を呟く。
勇希は七歳の時にシングルマザーであった母親を亡くし、それから八年間、親戚の家を転々としている。
現在、身を寄せているのは、山口県横井町に住む次兄の伯父の家だ。妻と小学二年生の娘と幼稚園児の息子がいる。
伯父は出張でよく家を空け、叔母と子ども二人は夏休みの間、叔母の実家に帰省する予定だ。そこで夏休みの間だけ、横浜の伯父の家に身を寄せることになった。
横浜に住む長兄の伯父は先妻の子であり、親族の集まりにはまず顔を出さない。気楽な独身生活を謳歌している変わり者、というのが親族の評価だ。
もう何度目になるかわからない上り坂を登りきったところで、ふと空気が変わったことに気づいた。
風に今までと違う香りが紛れている。林や森とも違う、甘いような、苦いような、酸っぱいような、味覚を刺激する植物の香りだ。
香る風の手招きに従って進んでいくと、やや年季の入った鉄柵が見えてきた。勇希は荷物を持ち直し、柵に沿うように歩き続ける。
柵が途切れて現れた、立派な石柱のアーチ形の鉄門に、勇希は思わず目を瞠る。門から広がる石畳の先には、白い壁に緑色の屋根を持つ洋館が存在していた。
石柱に埋め込まれている金属プレートに刻まれた住所と生徒手帳にメモした住所を照らし合わせた。つまり、ここが変わり者の伯父の家だ。
門柱のすぐ横には黒板の立て看板に、チョークで手書きの文字。
『魔法使いのハーブカフェ 美味しいハーブティーをご用意しています。茶葉のグラム売りもしています ハーブについての各種相談に乗ります お気軽にどうぞ』
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