あったかもしれないミステリー・スパイ小説『パラダイス・ロスト』柳広司


かつて、世界大戦において日本が経験した手酷い敗北の数々は、司令部は戦いの基本ともいえる兵站を軽視したこと、そして情報戦を軽視したことが大きな要因であったとされている。

 

ところが、そんな日本の軍部においても、異色の組織が存在していた。その名を、陸軍中野学校という。諜報員、いわゆるスパイを育成していた軍事機関である。

 

当時、陸軍中尉であった私は、上司が彼らに対しての中傷を口にするのを聞いたことがある。彼らは軍部の人間でありながら、同胞からは蛇蝎のごとく嫌われていた。

 

というのも、大日本帝国の軍人は正々堂々を信条としており、卑怯な行いを嫌悪していたからである。そもそも、その陸軍中野学校のやり方は、何もかもが一般的な軍部の真逆を突っ走っているようなものだった。

 

名誉よりも任務の遂行を目指す。そのためには、彼らは手段を択ばなかった。卑怯なことでも何でもやったという。命を落とすことを避け、時には誇りを犠牲にしても情報を持ち帰ることを目指す彼らを、我々は「腰抜け」と呼んだ。

 

一度だけ、私はその学校を視察に訪れたことがある。異様な雰囲気だった。生徒たちは軍服すら着ておらず、あまつさえ、平気で天皇陛下についての議論を交わしていた。

 

当時の私は随分と憤ったものだが、今にして思えば、戦争というものがまったくわかっていなかったのは、我々の方だったのだとわかる。

 

正々堂々、真っ向勝負。そんなものは、自分たちだけだ。事実、アメリカもロシアもイギリスも、情報戦を駆使して「姿の見えない戦争」をしていたのだ。火砲が轟音を鳴らすのは、勝利を確信した時だけだったのだろう。

 

我々は幼稚だった。おそらく、日本にいた人間の中で、我々が蔑んでいた陸軍中野学校の連中だけが、現実を見据えていたのだろう。

 

彼らのことを、ふと、思い出したのは、柳広司という人の、『パラダイス・ロスト』という小説を読んだことがきっかけであった。

 

年を取ってから動くこともままならなくなり、読書の楽しみに今になって耽溺するようになった私に、孫が勧めてくれたのだ。

 

それは、大日本帝国の軍部に設立された謎の組織、「D機関」というスパイ養成施設を主題として描いたスパイ小説である。まるでファンタジーだが、私はそれが徹頭徹尾架空の物語ではないということを知っている。

 

「D機関」が陸軍中野学校をモデルにしていることは、すぐにわかった。作中に登場するその得体の知れなさは、まさしく実際にあったあの組織と同じだった。

 

戦時中を描いた作品でありながら、その作品に軍艦同士の砲の撃ち合いというものはない。突撃する軍用機もなく、銃剣を手に鬼気迫る敵との命のやりとりもない。

 

だが、そこに描かれていたのは、紛れもなく戦争であった。否、それこそが、「本当の戦争」の姿だったのだろう。今は、そう思う。

 

彼らは敵を敵だとわかっても、命を奪わない。だが、彼らの情報は、誰よりも多くの敵を葬っている。我々が軽視していたものとは、それほどのものだったのだ。

 

ありし日に思いを馳せても、すでに全ては終わったことである。今になって過去の思い出が泉のように溢れてくるのは、私自身の命がなくなろうとしているからだろう。

 

さっき飲んだ薬。私は知っていた。閉校になった陸軍中野学校の精神が、今も朽ちてはいないことを。そして、多くの同胞が時とともにいなくなった今、この日本で唯一、私だけが、そのことを知っている、いや、知っていたのだということを。

 

D機関とは何者か?

 

島野亮祐。日本からの留学生。入国スタンプは一九三九年六月十五日。入国地はおそらくマルセイユ。自分の旅券を見つめたまま、島野は首を傾げた。

 

すると、この国にすでに一年以上滞在していることになる。だが――。何も思い出せなかった。名前も、身分も、経歴も、旅券に貼られた顔写真さえ、まるで自分のものとは思えない。

 

(違う……俺は……本当は……)

 

不意に鋭い痛みが側頭部を襲い、島野は思わず頭に手をやった。指先が、幾重にもきつく巻かれた包帯に触れた。

 

「無理に思い出そうとしなくていいよ。たぶん、頭を強く殴られたことによる一時的な記憶障害。よくあることだ。時間が経てば自然に思い出すさ」

 

島野は痛みに顔をしかめたまま、声がした方に視線を向けた。アラン・レルニエ。さっきそう自己紹介されたばかりだ。部屋の中には、さらに二人の人物がいた。ジャン・ヴィクトール。残る一人はマリー・トーレス。

 

「おいおい、それじゃ、本当に、まるきり何も覚えていないのか? きみが無謀にもドイツ兵にたてついたことも? 俺たちがどれだけ苦労して、きみを助け出したのかも?」

 

ドイツ兵にたてついた? ドイツ兵? 何の話だ? 島野は眉を寄せた。相手に情報を与えるな。自分からは決してしゃべるな。可能な限り相手に説明させろ。頭の中で声が聞こえた。

 

「教えてくれ、何があった? ぼくは何をした? ドイツ兵にたてつく? だが、ここはフランスだろう? なぜドイツ兵が出てくる? 何がどうなっているんだ?」

 

「君が羨ましいよ」

 

アランが唇の端に自嘲的な笑みを浮かべて言った。

 

「できることなら、ぼくも忘れたいものだな。祖国フランスが今、ドイツに占領されている現実なんてね」

 

 

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