私は激怒した。いや、これは怒髪天を衝くよりも悲しみに押し流されているのが正しかろう。
昨今のなんでもかんでもスマホやらパソコンやらで済ませてしまう文化にはとうとう我慢ならぬ。
私は自分が今まさにパソコンに文章を打ち込んでいる事実をすっかり棚の上に上げて悲しみと怒りに咽び泣いた。
今や小説なんぞはパソコンのワンクリック、スマホのワンタップで見れる時代へと変わってしまった。
なんと嘆かわしい。恥を知れ。貴様らは古代エジプトから綿々と受け継がれてきた紙の尊さを忘れたとでも言うのか。
小説なんて読めれば何でもいいじゃん、なんて腑抜けたことを言っている若造を見かけると、私はついその顔面に拳を叩きこんでやりたくなる。
しかし、もちろんそんなことはしないが。報復を怖れているわけではなく、紳士的な姿勢を失うことはすなわち敗北に等しいからである。
小説は紙で読んでこそ良いのだとなぜ気づかない。紙のざらざらした材質、年月による茶色い染み、かすかに香るインクの芳香、間に挟まったままの虫。
液晶などではない、五感に訴えかける現実感を物語とともに浸るのが天上にも勝る至上の幸福なのではないか。
殊に悲しいのは本を読むことのなくなった若者に多く生じている文学離れである。
私は中二的精神から『人間失格』を読み、国語の教科書で『羅生門』に浸り、『赤い繭』のわけわからなさに頭を抱えて悶絶し、文学の楽しみに耽溺した。
しかし、我が学友はやれアニメだの、やれマンガだの、そんな話題ばかりだ。甚だ嘆かわしい次第である。
「昨日の『名探偵コナン』はどうだった?」
「おもしろかったよ~。まさか犯人があの人だったなんて思わなかったけど」
「ああ、そうだな。コナンはよい。私は『まだらの紐』が好きだな」
「……それでさ~」
嘆かわしい次第である。
文学の話を思う存分に出来る学友が誰一人としていないのはどういうわけか。それとも、いるのに隠れているだけか。
教室中を見回して同志を探すのは私の習慣のひとつであった。原動力の私の根底にある語りたいという欲求である。
ああ、誰ぞ私と『ドグラ・マグラ』について語らないか。『草枕』についてでもよいのだぞ。
まさに鵜の目鷹の目となって探していた私は、とうとう文学を愛する同志に出会うことができたのだった。私は溢れんとする感涙をこらえ、さも自然に話しかけた。
「やや、貴君、それは太宰の『走れメロス』だとお見受けする。よもや、太宰治先生が好きなのか?」
彼は緊張のあまり時代錯誤な話し方で突然声をかけてきた私に警戒の視線を向けてきたが、やがて苦笑して答えた。
「いや、よく見なよ。これは森見登美彦先生の『走れメロス』だね」
「同じ題名で書いている、ということか?」
「いや、そうじゃない。森見登美彦先生は独自の世界観を持った作家先生だけど、文学作品の名作を先生風にアレンジしたのがこの本なのさ」
それを聞いて、いよいよ私は激怒した。文学作品をアレンジするなど、言語道断であろう。許されがたし所業である。
怒り狂う私に、やや引きながら、彼は気になるなら貸してあげるよ、と言った。私は奪い取るようにその本を取る。
「しばしお借りする。内容によっては然るべき制裁を与えねばなるまい」
私は立ちふさがる風車に挑むドン・キホーテの面持ちで、その本のページを開いたのだった。
華麗に姿を変えた名作
身体をぷるぷると震わせて机に顔を伏せる私を、クラスメイトたちが奇異なものを見る目で遠巻きに見つめていた。
しかし、私にはどうすることもできない。笑いをこらえるのに必死だったからだ。
どうにか笑いをおさめて、笑い過ぎて痛みを訴える頬と腹を押さえつつ、私は改めて彼に本を返しに行った。
「……まあまあだった」
彼は私の真っ赤に染まった顔色を見て照れ隠しに気づいたのだろう。苦笑しつつ本を受け取った。
「おもしろかったでしょ」
「うむ」
「『走れメロス』とか斬新なアレンジだよね。約束を守るために走るんじゃなくて、約束を守らないために走るんだから」
でも、すごいのは友情が大事っていうテーマは何も変わっていないんだよね。彼の言葉に私は同意を示して頷く。
「原作のメロスは友を助けるために約束を守ろうとする。彼が必ず帰ってくると信じるセリヌンティウスとの信頼は、たしかにわかりやすい友情の示し方だろう」
しかし。
「芹名は芽野が約束を守らないだろうと信じていた。そして、そんな芽野こそが彼の友だったわけだ。だから、友の信じる自分を証明するために彼は走った」
誰からも理解できないだろう、そんな友情。助け合わないことこそが友情であるなど。まさに「詭弁論部」らしい、詭弁である。
本の内容について語り合う。私は彼と話しながら、内心でその楽しみに震えていた。そうだ、これだ、これこそが私の求めていたものなのだ。
「なあ、君、頼みがある」
「なに?」
「他にもおすすめの小説を教えてくれないか。私も自分の好きな小説を紹介しよう」
「いいよ」
私は天狗であった。傲慢で、崇高な文学だけが価値のあるものだと信じていたのだ。なんと愚かであったろう。
読書の形も、ジャンルも、人それぞれだ。自分のそれを無理やり押し通そうとすると、我々は孤独な天狗になってしまう。
誰の手にも届かない高みで、孤独に震えながらも傲慢がゆえに下りられない寂しさをむさぼるしかない、哀れな生き物に。
私と彼はなれるだろうか、いや、きっとなれるはずだ。芽野と芹名のような、誰に理解されずとも互いには理解できる友達に。
森見登美彦流の名作文学
芽野史郎は激怒した。必ずかの邪知暴虐の長官を凹ませねばならぬと決意した。
芽野はいわゆる阿呆学生である。汚い下宿で惰眠をむさぼり、落第を重ねて暮らしてきた。しかし厄介なことに、邪悪に対しては人一倍敏感であった。
芽野には入学以来、しじゅう顔を合わせていた親友があった。芹名雄一である。二人はともに「詭弁論部」に所属し、たがいに一目置いていた。
芽野と芹名は「詭弁論部に芽野と芹名あり」と自分たちで勝手に豪語したほどのひねくれ者で、変人揃いの詭弁論部員ですら意味の分からない阿呆の双璧であった。
そんな彼らも、ここ久しくたがいの顔を見ていない。
学園祭の模擬店の並んでいるグラウンドを廻って部室の方へ歩いていくと、その扉は閉ざされ、路上に置かれた炬燵にあたっている学生たちが見えた。
学園祭の賑わいへ溶け込めず、ただ肩を寄せ合って晩秋の風に震えているのは詭弁論部員たちにほかならない。しかし芹名の姿は見えなかった。
彼らが部室に入らない理由は、部室が閉鎖されたからとのことである。彼らは、詭弁論部が今まさに廃部の危機に瀕していると述べ立てた。
先日、自転車にこやか整理軍と名乗る屈強な男たちが乗り込んできて、部室を閉鎖すると、「詭弁論部」に代わって「生湯葉研究会」の看板が掲げられた。
黒幕は陰の最高権力者である「図書館警察」の長官であるらしい。芽野は怒り心頭のままに看板を引き剥がしにかかり、身体の大きな男たちに抱えられた。
芽野が連れていかれたのは、文学部の古い校舎の最上階、荒涼とした一室である。芽野が埃だらけのソファにぽつねんと座っていると、小太りの男がふうふう言いながら入ってきた。
彼こそが図書館警察を牛耳る長官である。憤る芽野に、彼は部室を開放する代わりとしてひとつの提案をした。
グラウンドに設営してあるステージで、楽団の奏でる『美しく青きドナウ』に合わせてブリーフ一丁で踊り、今宵のフィナーレを飾れというのである。
芽野は踊ってみせると言い放った。しかし、彼は一日だけの猶予を求める。姉の結婚式に出なければならないのだ、と。
代わりに、芽野は大学入学以来無二の親友である芹名を人質として差し出した。もしも逃げたら、彼にブリーフ一丁で躍らせろと言うのだ。
それを聞いて長官は考えた。彼ならば約束を守るに違いない。約束通りに彼が帰ってきたら、一切を許してやろう。そうすれば僕らは友人になれるだろう。
実は図書館警察長官は、孤独にはもう飽き飽きしていたらしいのだ。彼は芹名を連れてくるよう命じ、やがて芹名が姿を現した。
芽野が一切の事情を語ると、芹名は無言で頷いた。荒涼とした一室で、彼らは堅い握手を交わした。友と友の間はそれで良かった。
芽野は校舎から外へ駆け出した。彼は学園祭で浮かれている構内を駆け抜けて姿を消した。
しかし、芹名は彼は約束を守らないだろうと言い放った。そもそも、芽野に姉はいないのだ。
話が違うと怒りに震えた長官は高らかに言った。
「俺様をナメやがって! なんとしてもやつに約束を守らせて、ブリーフ一丁で躍らせてくれる。しかもそのブリーフは、破廉恥きわまる桃色だ!」
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