幸福とは、かれが存在したということだった『幸福な死』カミュ


アルベール・カミュはバカンスに向かう途中、交通事故によって命を落とした。彼の生涯は、幸福だったのだろうか。

 

カミュといえば、『異邦人』や『ペスト』が有名で、正直に言えば、私はその作品をあまり知らなかった。『幸福な死』。生前、未発表のままに終わった、先生の没作であるらしい。

 

平凡な青年メルソーは、両足を失っている富裕層のザグルーの命を奪い、金を盗む。その根底には、ザグルーから聞いた話があった。

 

「幸福になることは時間があれば可能だけど、多くの人は人生をお金を稼ぐことに費やしてしまう。お金を持つことは、その人をお金から解放することだ」

 

盗んだ大金を使って、メルソーは三人の美しい女性たちと共同生活を送り、最後には、孤独で幸福な死を迎える、そんな物語。

 

正直、読みやすくはない作品だった。名作『異邦人』とは比べ物にならない。ストーリーがつながっていない歯抜けのようなところすらある。

 

だけど、だからこそだろうか、「幸福」という、私たちが求めてやまないものと、「死」という、私たちが怖れて遠ざけているもの、その二つが絡み合うメッセージが、より心に深く突き刺さってくるような気がした。

 

私たちは本来、お金で時間を買わねばならないところを、逆にお金を稼ぐために人生を費やしている。その先には、幸福はない。

 

お金があれば、時間が手に入り、そこには幸福がある。けれど、気をつけなければならないのは、多すぎる時間もまた、ひとつの落とし穴なのだということ。

 

「幸福もまた、長い忍耐なのだよ」

 

金を得ることによって手に入れた膨大な時間は、意思と尊厳を奪い、「幸福」を求める渇望すら食い尽くしてしまう。幸福は甘いが、たっぷりと毒が含まれている。

 

ひとりの女を巡る恋敵として出会ったメルソーとザグルーは、邂逅を重ね、友人とも似つかない間柄となった。ザグルーから聞いた「幸福」の理屈に従い、メルソーは彼を手にかけた。

 

「ぼくはじきに幸せになるんだ」

 

幸福を追い求めるメルソーの視界には、彼が最期を迎えるその瞬間まで、ザグルーがいた。「幸福にならなければならない」という彼の思想の裏には、ザグルーの命の上に今の自分が立っているのだと、彼が生涯忘れることができなかったからだと、私は思う。

 

幸福になることと生きることは義務である、と。ザグルーは言った。いかにも簡単なようで、誰もが求めていること。だけど、それが実際に手にしようとするには、なんと難しいことだろう。

 

「幸福」とは、何か。私たちは、それを求めて生きていながらも、その具体的な姿を知らない。私たちは形を持たない霞をただひたすらに追いかけている。

 

安定した生活か。幸せな家庭か。莫大な財産か。自由の謳歌か。労働からの解放か。一生続く労働か。他者への無私の奉公か。我が子の成長を見届けることか。

 

誰もその具体的な姿を見たことがない。けれど、誰もが、曖昧な「幸福」の幻想を抱いて、必死に毎日を生きながらその場所を求め続けている。永遠に、辿り着くことのない、その道を。

 

莫大なカネを手に入れたメルソーは、三人の美女とともに優雅な時間を過ごす。その時間は「幸福」だっただろうか。たしかに至福ではあったのだろうけれど、彼の最上の幸福は、そこにはなかったように思う。

 

メルソーが命を失う瞬間。幻の中のザグルーと邂逅し、美しい世界と一体になる、その瞬間こそが、彼の「幸福」の骨頂だったのではないだろうか。

 

「幸福」とは何か。私たちは人生において、常にそれを必死に追い続けるために、それは決して手に入れることができない。思うに、「幸福」は、私たちが最期を迎えたその瞬間、ようやく手にすることができるのではないだろうか。

 

 

幸福な死を

 

朝の十時だった。パトリス・メルソーは規則正しい足どりでザグルーの別荘に向かって歩いていた。別荘には誰もいなかった。四月だった。それはきらきらと輝く、冷たい美しい春の朝だった。

 

彼はザグルーが鍵をかけずにおいた扉をあけ、自然な仕草でそれをしめた。かれは廊下に進んだ。そして左側の三番目の扉の前にやってくると、戸を叩いてなかに入った。

 

ザグルーはちゃんとそこにいた。かれは肘掛椅子に腰かけ、切断された両脚の残骸に膝掛をかけていた。かれは、驚きの表情をなにひとつ示さぬそのまるい目で、ふたたびしめられた扉の側にたったいま立ち止まったメルソーをじっとみつめていた。

 

パトリスは暖炉のもう一方の端の櫃の方に向かって歩いた。かれは躊躇することなく櫃の方にかがみ、それをあけた。

 

白地の上に置かれた黒いピストルは、そのあらゆる曲線がピカピカと輝いていた。そのピストルは相変わらずザグルーの遺書の上に置かれてあった。

 

メルソーは右手でピストルを握ると、ザグルーの方に近づいた。ザグルーは、いま窓をみつめていた。右のこめかみにピストルの筒先を感じても、かれは目をそむけはしなかった。

 

だが、かれをみつめていたパトリスは、かれの視線が涙でいっぱいになるのを見た。両目を閉じたのはかれのほうだった。かれは一歩うしろにさがり、引き金を引いた。

 

 

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