クジラは老衰で弱ってきて、寿命が近づいてくると、陸の方に上がろうとしてくるのだという。
あれはテレビだったか、それとも教科書だったか、何だったかは覚えていないけれど、一度だけ、陸に上がって動かないクジラの写真を見たことがある。
それは自分の人生には何の関係もない、クジラだということくらい、僕にもわかっている。けれど、わかっていながらも、胸中にはいつも説明のできない寂寥感のようなものを感じていた。
長い生をその雄大な身体で過ごしてきて、命を失っていてもなお巨大な身体。それが陸でなければ、今にも動きそうなくらい。
けれど、それは間違いなく寿命を迎えていて、もう二度と動くことはないのだ。彼の生きてきた命は終わりを告げて、そこにはただの肉塊が残るだけ。
クジラは死期を悟ると陸に上がり、猫は死期を悟ると親しい者たちの前から姿を消す。人間は、どうだろうか。
陸に上がろうとするクジラは、見方を変えれば自ら命を絶とうとする人間と同じようなものなのかもしれない。
窪美澄先生の『晴天の迷いクジラ』は、タイトルの美しさとは裏腹に、暗く、重たい作品だった。
兄を溺愛する母親に愛してもらえず、寂しい子ども時代を過ごしてきた由人は、働くも、仕事では失敗ばかり、恋人のミカには振られて、とうとううつ病になってしまう。
闇を抱えるのは彼だけじゃない。田宮の勤めるデザイン請け負いの会社の社長、野乃花は、過去に自分の子どもを憎んでいた。
休暇もすべて返上して必死に働いても業績は下がる一方で、とうとう会社は倒産の危機に見舞われる。自ら命を絶とうとした野乃花に、由人はテレビを指差して言う。
「クジラ見に行きましょう!」
それは、彼が野乃花を止めるために、苦し紛れに出したただの言い訳だったのかもしれない。けれど、野乃花は頷いた。こうして二人は、クジラを見に行くことになった。
その途中、正子という少女と出会う。彼女は過剰な母親の愛情に苦しみ、逃げ出したいと願っていた。彼女にもまた、大きな闇がある。
自ら死にたいと願った三人は、まるで家族のように寄り添い、自分たちの傷を慰め合いながら、クジラのもとへと向かう。
彼らは、特別不幸な人間だっただろうか。彼らの境遇はひどく暗く、険しい。しかし、それはどこにでもあるような、ありふれた闇。
きっと、今の人はみんな、その闇を心に持っているのだろう。けれど、決して覗き込まない。どれだけ見たくても。そこを覗き込めば、もう、帰ってこれないことを知っているからだ。
生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ。その台詞は、『ハムレット』だっただろうか。無意味かもしれない自問自答をただ、繰り返す。
それまではなんとも思わなかったけれど、今の私にとって、『晴天の迷いクジラ』は特別な一冊である。
大学を卒業したばかりの当時の私は、内定がとれた中小企業に入社することになった。
しかし、働いていくうちに、次第に、心の中に何かが溜まっていくような気がしていた。私はそのことを知るのが嫌で逃げていたが、その存在はますます大きくなっていくようだった。
怒り。苦しみ。不満。恐怖。それらすべてをひた隠していた笑顔の仮面が、いつしか、ひび割れていることに気が付いた。その亀裂は、蛇のように広がっていく。
カッターナイフの刃を手首に押し当てる。押し当てるだけだ。切るのは恐くてできなかった。けれど、押し当てるだけでも、微かな快感を得ることができた。
限界だった。もう駄目だと思っていた。迷いクジラの私の目の前には、自分が向かうべき陸の姿しか目に見えていなかった。
今の私があるのは、『晴天の迷いクジラ』のおかげだ。あの頃、この本を読んだことが、踏みとどまる結果になった。
死んだらすべてなくなる。だから、それは最後の手段だ。目の前には、陸以外にもまだまだ道はある。晴天になれば、その道も姿を現すだろう。
どんなに辛くても、生きていかなくてはならない。生きてさえいれば、あなたはどんな道でも歩くことができるのだから。
迷いクジラたち
築三十年以上は経っている古ぼけたこのアパートを田宮由人が気に入ったのは、二階の部屋のベランダから飛び込めるほどの近さに釣り堀が見えたからだ。
釣り堀といっても、こぢんまりとした都会の釣り堀だ。引っ越した当初はその音が耳について、なかなか眠りにつくことができなかった。
けれど日が経つにつれ、暗闇の中の誰もいない池を見ながら、水の動く音を聞いていると、とげとげした気持ちが不思議に落ち着いてくるのを感じていた。
ただひとつの難点は、雨が激しく降った日、池の中からずるずるとたくさんのカエルが這い出して、池のまわりを徘徊することだった。
あけそうであけない梅雨の日曜日。午前〇時。由人は、窓を開けて釣り堀を見た。もちろん、釣り堀には誰もない。
振り返ると、暗闇の中で携帯が光っている。会社の先輩である溝口から来たメールだった。
「野乃花ちゃん行方不明。連絡つかない」
短い文面を三回繰り返して読み、携帯をベッドに放り投げてから、由人もベッドの上に身体を投げ出した。
明るさの欠片もない、嫌な気分がまた、自分の身体からしみだして、この狭い部屋いっぱいに広がっていくような気がした。
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