その人と会ったのは、茹だるように暑い夏の日のことでした。その人は行き交っていく人たちの中で、どこかぼんやりと立ち尽くしていました。
けたたましく響いている蝉の声がどこか遠くで鳴っているかのようでした。汗が流れるほど暑いはずなのに、なぜか周りの気温が下がったように感じていました。
どうして彼のことが目についたかはわかりません。ただ、ふと目に入って、そこから目が離せなくなったのです。
彼も、やがてじっと見つめる私に気がついたようでした。視線が絡み合います。彼の視線はまるで森の中の湖畔のように静かでした。
それはさながらこの忙しない毎日から隔絶したような、そんな超然とした静謐さでした。しかし、どこか儚くて不安定なようでもありました。
「やあ、こんにちは」
彼がにっこりと微笑んで声をかけてきました。その声は消え入りそうな声でありながら、どうしてだかよく通る不思議な声でした。
「こんにちは」
私の声は驚くほど平坦だったでしょう。しかし、内心では戸惑っていました。見知らぬ男性から声を掛けられたというのもありますが。
目の前にいると、なおさらに彼の儚さが際立つかのようでした。小柄なわけでも地味なわけでもないのに、言うなれば、存在そのものが希薄なのです。
彼は蜃気楼のようなものでした。ふとした瞬間には、まるでそこには最初から何もいなかったかのように霧散してしまうのではないかと思うほど。
彼はまたぼんやりと、夢を見るような曖昧な視線で突っ立っていましたが、やがて、私を見て。
「君、このあと、少し時間があるかな」
お願いが、あるんだ。彼は一語一語を丁寧に噛み締めるような話し方をしていました。私はいいですよ、と頷いて並んでベンチに座りました。
普段の私ならば、見知らぬ男性からそんなことを言われても、決して頷きはしなかったでしょう。嘘をついてでも断ったはずでした。
しかし、その時の私は彼に対する興味がありました。それは彼という人間に対する興味であり、こんな人間の抱えるお願いとはなんだろうという興味でした。
「実はね、今、探し物をしているんだよ」
いっしょに、探してほしいんだ。彼は言いづらそうに口ごもりながらそんなことを言いました。
そのお願いを聞いた時、私はどこか失望を覚えていました。彼のお願いが思ったよりも普通であったことに。
しかし、それは次の彼の言葉を聞くまででした。そのお願いを聞いた時、私は目を見開いたのでした。
「私の、身体を探してほしいのです」
自分探し
幽霊が自分の死んだことに気付いていなくて、自分の忘れ物を探す、という話をどこかで見たことがあります。
あれは、『世にも奇妙な物語』だったでしょうか。女性が、カバンの中の自分の眠るような首を見つけて自分が幽霊だということに気がつく、みたいな。
ああ、でも、彼は自分が幽霊だということに気付いていたから、どちらかというと『Another』でしょうか。本編じゃなくて、エピソードSの方。
「私がこうなったのは、三か月前、でしょうか」
彼の話はあまりにも非現実的だったのですが、私は特に抵抗もなくあっさりと信じていました。
いささかおかしいとは自分でも思いますが、その彼の独特の空気があまりにも異質だったからでしょう。それこそ、幽霊と言われても信じられるほどに。
「その頃の私は仕事を失くして、妻にも逃げられて、もう、生きることにも疲れていたんですよ」
それでね、森の中に入って、首を。彼はそこまで言って口を閉ざしました。それっきり、彼はこの話を二度とすることはありませんでした。
「でも、それなら、わざわざ身体を探す必要なんてないのでは」
「ええ、そのはずなんですけれど、ね」
どうしてなんでしょうね。ただ、自分の身体を見つけなくてはいけない。そんな気が、するんです。彼は熱に浮かされたみたいにそんなことを言っていました。
やがて、彼の言葉に従いながら、私たちは森の中に入っていきます。昼だというのに薄暗くて、蝉の声すらない静寂に包まれていました。
「ああ、この木です。覚えています。この木の、向こう側」
彼の言うとおりに木の向こう側に進みました。しかし、そこにあったのは、枝から吊るされた荒縄の切れ端だけでした。
考えてみれば当然のことですが、誰かがもう、処理したのでしょうね。残念でしたね、と私は彼に言うつもりでしたけれど。
「ありがとうございます」
耳元でそっと呟かれたそれが彼の最後の言葉になりました。振り向いた時にはもう、誰もいなくて、森の中に私だけがぼうっと立っていました。
探し物は、見つかりましたか。私は小さな声で呟いてみます。穏やかな風が、陽炎をさわさわと揺らしていました。
謎の死を遂げた幽霊が自分の身体を探すホラー
来海崎の東大が見える海岸で、僕がその少女と遭遇したのは昨年の、たしか七月の終わり頃だった。正確な日付までは思い出せない。
メイという名の、中学生の少女。彼女と会うのはそれが二度目だった、ということは記憶にある。
このとき最も印象的だったのは、少女の左目が蒼い色をしていたことだ。人形作家である彼女の母が、娘のために作った特別な義眼なのだという。
その、どこか不思議な蒼い目の色が、鮮やかに心に残っていたから。昨年の夏の再会の時、僕は思わず彼女に声をかけたのだ。
そのあと甥の想とともに、とりとめのない話を彼女とした。彼女とは去年、これよりあとも幾度か会って話をする機会があったのだが、詳しいところはうまく思い出せない。
「きみのその目。その蒼い目。ひょっとしたらきみはその目で、僕と同じものを……同じ方向を見ている、のかもしれないね」
僕=賢木晃也が死んだのは、このおよそ九か月後のことだった。
今年の春――五月初旬のある日、僕は確かに死んだのだ。そして、こんなふうになった。生者としての実態を持たない、「僕」という意識だけの存在に。
幽霊は「出る」と言われる。出られる側の人々にとって、普段は見えない・感じられないのが幽霊だろう。
これが何かのはずみで見えたり感じられたりするとまず、彼らは「出た」といって驚き、怯える。
ところが、こうして自分が幽霊になってみて思うのは、出る側にしても事情は似たり寄ったりである、ということで。
これといった法則性もなしに、目的もなく意味もなく、ときおり出ては消える。少なくとも僕の場合はそんな感じだった。
僕は住んでいた〈湖畔の屋敷〉をはじめとして、いろんなところに出るようになった。そうこうするうちに、おのずとわかってきた事実がある。
どうやら僕=賢木晃也は、世間的にはやはり「死んだ」と認められていないらしい。どこかへふらりと旅行に出かけた、と見なされているふうなのだ。
僕はあの夜、たしかに死んだ。このような幽霊になった。にもかかわらず、僕が死んだことは世間には知られていない。すなわち、隠蔽、である。
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