閉ざされた寝台列車で起きた事件の衝撃の真相『オリエント急行殺人事件』アガサ・クリスティ


電車の揺れに耳を澄ませながら、私は新聞を読んでいた。ある事件についての記事が一面に載っている。なんでも、停車した電車の中で人が刺されたのだと。

 

なんとも物騒な世の中なもんだ。私は思わずため息をついた。現実の事件はミステリのように名探偵が解決するわけではない。ただ事件が起こり、警察が人海戦術と科学の力によって犯人を特定し、あとは捕まるだけ。

 

そこには風情も何もない。ただの非情な現実が横たわるばかりだ。多少の遊び心でもあれば、世の中はもっと面白くなるというのに。まあ、被害者が出ているのだから、こんなことを言っていては不謹慎だと詰られるだろうが。

 

電車での事件と聞いて思い出すのは、かのミステリ作家、アガサ・クリスティ先生の傑作、『オリエント急行殺人事件』である。

 

豪雪によって停車したオリエント急行。その中で、ひとつの殺人事件が起こる。被害者はラチェットという男。彼の身体にはいくつもの奇怪な刺し傷があった。

 

偶然その電車に乗り合わせていた名探偵エルキュール・ポワロは、犯人の捜索を始める。容疑者は電車に乗っていた乗客全員。果たして犯人は誰か。

 

その衝撃的な真相は当時では異端であり、大いに話題となったという。『そして誰もいなくなった』や『アクロイド殺し』と並ぶ、アガサ・クリスティ先生の代表作だ。

 

それを読んで以来、私は好んで電車に乗るようになった。事件に遭いたいというわけではないのだが、電車の揺れを肌に感じながら本を読むのが至高なのである。

 

思えば、電車とは動く密室とも言えるではないか。走っている間は決して外に出ることはできない。それでいて、乗客は多い。ミステリにはうってつけの舞台だ。

 

電車を舞台としたミステリは今でこそ数多くあれど、『オリエント急行殺人事件』の上を行く作品には、未だ出会えていない。

 

ああ、家に帰ったら、ぜひとも読み返してみようか。そんなことを思いながら、はて今はどこだろうか、と外を見る。そこには、見知らぬ光景が広がっていた。

 

……そういえば、今朝の記憶がない。私はいつの間に電車に乗ったのだろうか。周りを見渡してみれば、私以外の乗客はいない。電光掲示板も消えている。車内放送もない。

 

異変を感じ、私は慌てて立ち上がった。新聞が軽い音を立てて足元に落ちる。その一面を飾る記事が、再び視界に入った。電車で起こった事件。その被害者の名前は。

 

私はいつ、どこに向かう電車に乗ったのだ。この電車は今、どこに向かっているのだ。辿り着いたそこには、果たして何があるのか。もはや、私には何もわからなかった。窓の外を眺めて、呆然と立ち尽くす。

 

電車はただ走る。線路を辿って、結末まで。走り出した電車は、動く密室だ。走り出した物語はもう、誰にも止めることなんてできやしないのだ。終着駅にどんな真実が待っていようとも。

 

 

容疑者は乗客全員

 

シリア、冬の朝五時。鉄道案内に太字でタウルス急行と記された汽車が、アレッポ駅のプラットホームに停車していた。

 

寝台車へと上がるタラップの横で、きらびやかな軍服に身を包んだ若いフランス人陸軍中尉がひとり、小柄な男と話していた。

 

凍てつくような寒さのせいで、この有名人の見送りも人の羨むような役目とはいえなかったが、デュボスク中尉は雄々しくその職務を果たしていた。

 

将軍と客人の会話を、デュボスクはふと立ち聞きしたことがある。「ムシュ―、あなたは我々を救ってくださった」将軍は白い口髭を震わせながら、感極まったかのように言った。

 

これに対して客人の方は(名をエルキュール・ポアロという)、次のような言葉を含む実に分別のある答えを返した。「しかし、貴君がかつてこの命を救ってくださったことを、私がお忘れだとお思いですか?」そうしてふたりは心からの抱擁を交わし、会話を終えたのだった。

 

こうしたことがあったわけだが、デュボスク中尉には相変わらず何が何だかわからなかった。それでもタウルス急行に乗るポアロ氏の見送りという任務を与えられたので、その遂行に注ぎ込んでいるのであった。

 

プラットホームを凍てつく風が吹いてきた。二人の男たちは身を震わせた。デュボスク中尉は相手に気付かれないよう、ちらりと腕時計に目をやった。四時五十五分――あとたった五分で終わるのだ!

 

頭上で寝台車の窓を覆うブラインドが開き、若い女が顔を覗かせた。先週の木曜にバグダッドを発ってからというもの、メアリー・デブナムはろくろく睡眠を取っていなかった。

 

窓の下に立つふたりの男たちは、フランス語を話していた。ふとりはフランス人将校で、もうひとりは大きな口髭を蓄えた小男である。

 

男たちに、寝台車の車掌が近づいていった。もうすぐ発車するので乗車するよう二人に告げる。デュボスク中尉が別れの言葉を切り出した。ポアロもこれに劣らぬ、美しい挨拶を返した。

 

「ご乗車ください、ムシュ―」車掌が声をかけた。ポアロは実に残念そうな物腰で、汽車のタラップを上がっていった。汽車は大きく車体を揺らすと、ゆっくりと進み始めた。

 

 

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