繰り返される女性の不倫劇『暗夜行路』志賀直哉


そのタイトルは、いかにも暗く、陰鬱な雰囲気を醸していた。ただ本棚に収まっているだけで、どこか重苦しいような、重厚な威圧感を放っているのだ。そのタイトルを、『暗夜行路』という。

 

俺がその本を手に取ったのは、その雰囲気に惹かれたからである。それは曇天のようにのしかかってくるようでありながら、どうしようもなく俺の心を惹く何かがあるような気がしたのだ。

 

その物語は、時任謙作という青年を描いている。そもそも、今の題名になる前は『時任謙作』というそのままのタイトルであったのだという。志賀直哉先生が私小説として執筆していた作品である。

 

時任謙作は家族から愛されない子どもであった。兄や妹とは明らかに彼だけ扱いが違っていた。父はほとんど彼を無視し、母は彼を邪険に扱った。

 

そんな彼は、母が亡くなった後のある時、兄弟や父のもとを離れ、ひとりだけ、祖父のもとに身を寄せることになる。その家は彼から見ると、貧乏臭く下品であったという。

 

やがて、成長して小説家となった謙作は、幼馴染の愛子という女性と心を通わせるのだが、彼に好意的だった彼女の家族が突然態度を翻し、愛子を別のところへと嫁にやってしまう。彼に何の説明もなく。

 

以来、謙作は女性をなかなか愛せないようになっていった。その心の傷もようやく癒えてきた頃、彼は祖父の家で家事を請け負っていたお栄という女性と結婚しようと願う。

 

ところが、その懇願を送った兄から返されてきた手紙には、彼が愛されない衝撃の事実が記されていた。それは、彼の人生を蝕む呪いであった。

 

読んでいくに、心が沈んでいくような作品である。まさしく、暗夜行路を行くかのような。心癒えたかと思えば、世間が再び彼に傷を与えてくる。

 

謙作の生涯は常に「女」に振り回されていた。出生に呪われ、恋しても実らず、心通じた女性には裏切られ、彼は心身共に疲弊していく。

 

そして、命すらも危ぶまれる身となって、ようやく彼は心の平穏を得るのである。そこでようやく、彼の人生は暗夜を抜けたのだろう。

 

世間では男の不倫がしばしば騒がれている。どれだけおしどり夫婦のように見えていても話題になることがあるのだから、驚きである。まったく、人間、裏で何をやっているやらわからない。

 

とはいえ、不倫をするのは何も男だけの特権というわけではないだろう。女とて、隠すのが上手いだけで不倫をする。この物語に出てくる女性たちのように。

 

「不倫は文化だ」などという言葉がある。今でこそ非難囂々であろうし、「男の都合のいいような言葉」だと言われてしまうだろう。

 

だが、それは女とてそうであろうに。そして、世の中の男と女の云々を見ていると、その言葉もあながち間違いではないようにすら思ってしまう。

 

多くの文学で不倫は優れたドラマを生み出す。神話ですら、不倫をしている。不倫は気の遠くなるような昔から、人間の遺伝子の奥深くに刻まれているのだ。

 

だが、そのうえで、やはり不倫を厭う心は失ってはいけないだろう、と思う。謙作のような人間を、生み出さないためにも。

 

不倫が問題なんじゃない。「人を裏切ること」が問題なのだ。愛するならば、相手に対して道理を通せと言いたいのである。その不実こそ、俺たちの行路に暗夜を差し込めている元凶なのではないだろうか。

 

 

時任謙作

 

私が自分に祖父のあることを知ったのは、不意に祖父が私の前に現れてきた、その時であった。私の六歳の時であった。

 

或る夕方、私はひとり、門の前で遊んでいると、見知らぬ老人が其処へ来て立った。私は何ということなくそれに反感を持った。

 

老人は笑顔を作って何か私に話しかけようとした。しかし私は一種の悪意から、それをはぐらかして下を向いてしまった。

 

私は不意に立ち上がって門内へ駆け込んだ。その時、「オイオイお前は謙作かネ」と老人が背後から云った。

 

私はその言葉で突きのめされたように感じた。そして立ち止まった。振り返った私は心では用心していたが、首はいつかおとなしく頷いてしまった。

 

老人は近寄ってきて、私の頭へ手をやり、「大きくなった」と云った。

 

この老人が何者であるか、私にはわからなかった。しかし或る不思議な本能で、それが近い肉親であることをすでに感じていた。私は息苦しくなってきた。

 

二三日するとその老人は又やってきた。その時私は初めてそれを祖父として父から紹介された。さらに十日程すると、何故か私だけがその祖父の家に引き取られることになった。

 

私の周囲の空気は全く今までとは変わっていた。すべてが貧乏臭く下品だった。

 

他の同胞が皆自家に残っているのに、自分だけがこの下品な祖父に引き取られたことは、子どもながらに面白くなかった。

 

しかし不公平には幼児から慣らされていた。それにつけても私は二か月前に亡くなった母を思い、哀しい気持ちになった。

 

父は私につらく当たることはなかったが、常に常に冷たかった。が、このことには私はあまりに慣らされていた。

 

母はどちらかと云えば私には邪険だった。私は事々に叱られた。しかし、それにもかかわらず、私は心から母を慕い愛していた。

 

 

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