世間を取るか、女を取るか『それから』夏目漱石


「まだ結婚しないの?」

 

 

 母からの結婚の催促も、もう聞き慣れたものである。私は良い相手がいないものだからと断った。

 

 

 結婚をしたくないわけではない。しかし、結婚をすれば得るものも多い代わりに、失うものもまた多いのだ。

 

 

 結婚している兄は会うたびに私に向かってのろけ話を聞かせてくる。おのれと思いつつも進んで結婚しようとしない手前、何も言い返せない。

 

 

 そんな兄の話を聞いていると、結婚しようという考えも浮かんでくるのも当然といえよう。帰宅した時に迎えてくれる人がいるというのは羨ましいものである。

 

 

 しかし、結婚してしまえば今のように好き勝手過ごすことができなくなるだろう。自由さへの執着が私から結婚への情熱を奪い去っているのである。

 

 

 相手がいないというのも間違いではない。今まで付き合ってきた女性はいるが、彼女と結婚したいと思うことは別れて以降もついぞなかった。

 

 

 というのも、彼女と交際している間もずっと、私の頭の中にはとある女性が我が物顔で居座っていたからである。

 

 

 その女性というのは私が入社した頃から大いに世話になった人であった。今も私の上司として気にかけてくれている。

 

 

 彼女はお節介好きの姉御肌で、そこらの男よりもよほど男らしい、気概に満ちた女性である。ひ弱で頼りないであろう私なんぞは何度も怒られたものだ。

 

 

 長い髪を後ろで結んだ、背の高い人であった。ことさらに美人というわけではないが、力強い瞳が自然と目を惹きつけるような、そんな女である。

 

 

 そして、彼女は会社の部長と結婚している。すなわち人妻なのである。

 

 

 彼女が結婚した時、私はこれでようやく諦められると思っていた。もともと結婚に対する意欲も薄い私よりもよほど良い相手だったろう。

 

 

 しかし、彼女が結婚したことで、むしろ私の中にはより強く彼女が居座るようになった。追い出そうとしても、男らしい高笑いと自分勝手な言い分を聞いていれば、逆らえなくなるのである。

 

 

 そうして、他の女性と付き合っていても、頭の中の彼女がいつもにやにやしながら見つめてくるので、どうにも私は決まりが悪くなって、つい誤魔化してしまうのだ。

 

 

 彼女の視線から逃れるように、私は本棚から適当に本を引っ張り出した。夏目漱石の『それから』である。

 

 

恋を得るために何を捨てるか

 

「あんたよりも『それから』の代助の方がよっぽど男らしいってなもんだ」

 

 

 私の頭の中の彼女は言った。誰よりも男らしいにもかかわらず、男らしい男とやらに一過言持っていた彼女らしい意見である。

 

 

「しかし、代助が手を出したのは人妻だ。常識的にまずかろう」

 

 

「互いに想い合っていれば関係ないだろう。常識なんてのはただの建前だ。好きだと言い出せない情けなさの言い訳に過ぎねえのさ」

 

 

 あんたもそうじゃあねえのか? 挑発するように言い放つ彼女に、私は言葉を返すことはできなかった。

 

 

 言い訳なんてしようとしても、彼女は私の頭の中の住人だ。私のことくらい、私よりも知っているだろう。

 

 

「代助は何もかも捨てる覚悟を決めた。自分から破滅する道を選んだんだ。たったひとりの女のためにな」

 

 

 ロマンチックじゃねえか。彼女は頬を染めて胸を押さえた。そういえば、彼女は意外と乙女趣味だった。

 

 

「それがあんたはどうだ? 自分の自由と恋とを天秤にかけて、どちらかに傾こうとはしなかった。その結果が今じゃねえか」

 

 

 こうなったのはあんたのせいだよ。彼女は責めるようにそう言った。瞳が挑むように爛々と輝いている。

 

 

「……なあ、頼む。出て行ってくれ。私の頭の中から。あなたがここにいる限り、私は先へ進めないのだ」

 

 

 何か勘違いしてんな、あんた。彼女は憐れむように呟いた。

 

 

「あたしの心はここにはいないさ。あたしをここに閉じ込めているのはあんただよ」

 

 

 私はいよいよ何も言うことができなかった。

 

 

世間と恋との間で葛藤する青年の悲劇

 

「門野さん、郵便は来ていなかったかね」

 

 

「郵便ですか。こうっと。来ていました。端書と封書が。机の上に置きました。持って来ますか」

 

 

 端書は、今日二時東京着、ただちに表面へ投宿、明日午前会いたし、と走り書きがあり、表に裏神保町の宿屋の名と平岡常次郎という差出人の姓名が書かれている。

 

 

 着物でも着替えて、こっちから平岡の宿を訪ねようかと思っているところへ、折よく向こうからやってきた。

 

 

 代助と平岡とは中学時代からの知り合いで、学校を卒業してからの一年間は兄弟のように親しくしていた仲である。

 

 

 彼は結婚して、同時に銀行の、京阪地方のある支店に勤めることになった。出立の際には彼の手を握って見送った。

 

 

 最初の頃は絶えず手紙のやりとりをしていた。しかし、だんだんと疎遠になり、ここ一年あまりは代助が年賀状に新住所を教えたきりである。

 

 

 それが二週間前、突然平岡から着信が届いたのだ。急に職業替えをすることになったからよろしく頼むとのことであった。

 

 

 平岡の細君は三千代といった。色の白い割に髪の黒い、細面に眉毛のはっきり映る女である。

 

 

 部屋の内から顔を出した細君は代助を見て、青白い頬をぽっと赤くした。代助は何となく席に着きにくくなった。

 

 

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