彼は不器用な人でありました。ただ一心不乱に、目の前の物事に熱中するようなお人でありました。
彼とは同じ教室に通う仲でございます。しかし、彼と話したのはすれ違った時の二言、三言ほどでありました。
というのも、彼は私のみならず、女子と話すことを厭うていたようでございます。私は彼が女性と話すところを見たことがありません。
同じ殿方の方と話すときの彼は無愛想であれど話さずでもなく、肩を組んで楽しそうに微笑みを零しておりました。
しかし、私が話した時ともなれば、彼は途端に俯いて、やがてぼそぼそと何やら呟いては顔を赤くして黙り込むのでありました。
私が彼のことを目で追うようになったのはとある出来事がきっかけでございます。
男子の中にひときわ乱暴なのがおりまして、男子も女子も彼の怒声と拳には怯えておりました。
当時の彼はひとりの大人しい男子を執拗にいじめておりました。それは見ていて凄惨でしたけれども、誰にも止める勇気がありませんでした。
ただひとり、彼を除いては。私がその光景を見たのは人気のない校舎の裏でありました。私は彼らを視界に入れた途端、咄嗟に壁の陰に身をひそめたのです。
「やめろ」
彼のその姿を私は忘れることはないでしょう。暴虐を止めようと試みた彼は彼の代わりに暴虐を身に引き受けることとなりました。
私はあまりの恐ろしさに、立ち尽くすことしかできませんでした。ようやく震える足が動いたのは彼らが立ち去った後のことです。
私ができたことと言えば、傷ついて倒れた彼に黙ってハンカチを渡すことだけでした。
以来、私の視線はおのずと彼を追いかけてしまうのです。話してみたいと思えども、視線が合うと思わず俯いてしまいます。
『たけくらべ』の美登利の気持ちははたしてこのようなものだったのでしょうか。赤くなっているであろう頬を両の手で隠します。
今日こそは話してみましょう。そう決意を新たにし、私は密やかにほうと息を零しました。
淡い想いを抱きしめて
彼女は可憐な人だった。誰にでも優しく、いつも花が咲いたように笑っているような人だった。
彼女とは同じ教室で学ぶ同輩だ。しかし、俺と彼女が話したことはほんの二言、三言しかない。
というのも、俺はどうにも女子と話すのが苦手だからだ。何事もなく話せるのは年増の教師くらいのものだろう。
男どもと話すのは何事もない。俺は元来話が不得手だが、話さなくとも奴らは勝手に話してくれる。
だが、彼女に話しかけられたら、俺はただ熱くなった顔を隠すように俯いて彼女の顔を見ないようにするしかなかった。
俺が彼女を意識するようになったのはある事件がきっかけだった。
同輩にひとり、ひどく乱暴者の男がいた。誰もかれもが腕っぷしの強い彼に怯えて、ろくに逆らうこともできなかった。
当時はひとりの気弱な奴が彼にいじめを受けていた。後から言い訳をさせてもらうならば、我慢していた俺はとうとう限界が来たのだ。
それは学校の校舎裏だった。人目につかないところで拳を振るう根性が俺には心底気に入らなかった。
「やめろ」
声に出した後でしまったと思っても、もう遅い。無謀な俺を迎えたのは容赦のない拳や蹴りの雨だった。
気がつけば、俺はひとりで地に伏していた。気弱な奴は逃げたのだろう。俺は痛みから動くことができなかった。
足音が聞こえたかと思えば、彼女は俺に黙ってハンカチを差し出した。受け取ると、そのまま去っていってしまった。彼女の手は震えていた。
以来、俺は恥ずかしさに震えるばかりだ。あんなみっともない姿を見られてしまったのだ。
それに、彼女のハンカチを返さなくてはならない。話しかけねばと思いつつ、どうにも気恥ずかしくて勇気が出ない。
今日こそは、話しかけよう。そしてハンカチを返すのだ。俺はひそかに机の下で決意の拳を握った。
不器用な男女の淡い初恋
吉原の遊女を姉に持つ美登利は勝気な性格の美少女である。彼女は子どもながらに裕福であり、同年の中でも幅を利かせていた。
子どもたちは長吉を中心とした横町と正太郎を中心とした表町に別れ、派閥争いをしていた。美登利は表町に属している。
対して、横町には大人しい少年である信如が属している。彼は暴力を好まないが、請われて組したのであった。
信如と美登利は同じ学校に通う同輩である。運動会の日、信如がつまずいて泥がついたのを、美登利がハンカチを差し出した。
しかし、他の子どもにからかわれ、信如はつれない態度をとった。からかわれるのが嫌で、彼はその後も彼女に冷たい態度を取り続けた。
すると、後には高いところの花を取ってくれと頼んでいた美登利もまた、彼の態度に腹を据えかねて、彼を嫌うようになった。
ある雨の日、信如は下駄の鼻緒が切れて途方に暮れていた。美登利は何者かが鼻緒が切れて困っていると親切心で持っていくが、それが信如と知って話しかけられずにいた。
美登利に気づいた信如だったが、恥ずかしさから彼女に気づかぬふりをする。美登利は彼に鼻緒を投げつけて去ってしまった。
信如は雨に濡れる鼻緒の替えを手に取りもせず眺めていたら、長吉が彼に声をかけてきた。
長吉に下駄を借りて、彼は美登利からもらった鼻緒もそのままに、雨の中を家へと向かった。
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