テレビのノイズのような音。けれど、あんなに無機質じゃなく、それでいて暴力的な。それは、私たちがどれほど無力な存在かを知らしめる、自然の咆哮だった。
本来ならば、物思いに耽っているような場合ではないのだろう。そんなことは、いくら僕でもわかっていた。
今まで見たことがないような光景。僕がずっと暮らしてきた町を、濁流が全て洗い流していく。
豪雨の予報があったのは、今朝のことだ。ここ最近、日本各地で豪雨の被害が起こっている。けれど、僕にはそれでも、テレビの画面の中の出来事でしかなかった。
だからそれが、まさか自分の町を襲うだなんて、夢にも思わなかったのだ。
車が音を荒げながら流されていく。家は濁流に呑み込まれて悲鳴を上げ、木は傾き、電柱がへし折れた。
僕はその光景を呆然と眺めている。僕が今まで過ごしてきた町が、時間が、文明が、生活が、思い出が、すべて呑み込まれていく。
そうだ、僕たち人間はすっかり忘れてしまったけれど、本来、自然はこういうものだった。
流動する水の動きが、まるで怪物のようにも見えた。それは歓喜の雄叫びを上げながら、街路樹の一本を噛み砕いた。
『ノアの方舟』の大雨は、あるいはこんなだったのだろうか。とも思うけれど、その時の僕の脳裏によぎったのは、恩田陸先生の『きのうの世界』だった。
とあるのどかな田舎町で起きた、ひとつの事件。被害者の名前は、市川吾郎という男だった。
彼は遠く離れた都会の大企業に勤める会社員で、上司の送別会の時に姿を消した。この田舎町の、水無月橋という小さな橋の上で命を落とすまで。
犯人は未だ捕まっていない。第一発見者は、地元では有名な元教師の老人だった。彼は事件から二週間後、命を落とす。
事件には、いくつかの不可解な点があった。事件現場に印がつけられた地図。駅の掲示板に貼られた謎の貼り紙。そして、事件発生前の被害者の奇妙な行動。
彼は偽名を名乗り、その町の地形を調査していたようだった。よそ者にもかかわらず、彼は町の一員として怪しまれつつも馴染んでいた。
事件の真相とは、何か。犯人は誰なのか。その真実は、町に屹立している塔だけが見ている。
その町で、吾郎が着目していたのは水路、つまり、水の動きだった。町は段差になっていて、住民たちすらも知らないところでつながっていることもある。
はるか上流から流した笹舟が、下流の、とある喫茶店の裏の水路で見つかる、というのは、地元でも有名な話だったという。
町には歴史がある。どんなに小さな町であっても、必ずそこには何かがあるのだ。
『きのうの世界』は、事件の謎を解き明かしていくと同時に、その町の秘密を探していく旅路のような作品だった。
作品の根底にある、得体の知れない不安。この中の誰かが犯人かもしれないという恐怖。それが、読んでいるだけの僕にも伝わってくるかのようだった。
明らかになった真実は、あまりにも驚愕するものだった。その光景が、今まさに目の前で起こっている光景に重なる。
昔の人は、自然の恐ろしさを知っていた。だからこそ、僕たちのような表層だけのものじゃない、生きるための知恵を振り絞って、自然との共存をしていく道を創り上げてきた。
それが、現代の人たちは、自然を手中に収めようとしてしまった。まるでこの世の支配者のように傲慢になり、共存を忘れ、かつて創り上げてきたものを自ら壊してきた。
この光景は、その報いであるようにも思う。今、世界中で起こっている異常気象。それは、僕たち人間がどうにか抑え込もうとしてきた自然が、とうとう暴れ出しただけなのだ、と。
神は堕落した人間に怒り、世界を洗い流す大雨を降らせた。それなら、誰もが堕落しきった現代に、果たしてノアとなるような人はいるのだろうか。
のどかな田舎で起きた事件の謎
もしもあなたが水無月橋を見に行きたいと思うのならば、M駅を出てすぐ、いったんそこで立ち止まることをお薦めする。
あなたはおもむろに前方斜め左に目をやる。そこはこぢんまりしたロータリーだ。そして、ロータリーの花時計の真ん中に建っているオブジェには、歓迎の文句が躍っている。
「ようこそ、塔と水路の町へ」
あなたはそれを読んで、そのオブジェは塔を象ったものだと気付く。そして、そのオブジェの後方に、ぽつんと黒く、細い建物が空に突き出ていることにも気づくはずだ。
あなたはじっとその塔を見つめることだろう。もっとも、しばらく眺めてみたところで、それが何なのかはわからない。だからあなたが、その塔に向かって歩き始めることにする。
あなたは初めて訪れる町を、迷わず進んでいく。しかし、次の角に来てあなたは立ち止まってしまう。道が左右に分かれているのだ。
あなたはとりあえず左を選んだ。そして道を曲がって進んだあなたは、ふと空を見上げて愕然とするだろう。
なぜならば、さっき駅前から見えた塔が、突然二本に増えているからである。そんな馬鹿な。
種明かしをすればなんのことはない、視線の向きと同じ一直線上に塔が並んでいると、二本の塔が一本に見えてしまうだけのことである。
近づいてきた塔は、いよいよ高く、いよいよ古いことがはっきりする。塔はまるで地面から生えているかのようだ。上に木の箱が載っている。
二つ目の塔が近づく。「二の塔前」というバス停がある。ここに、あの問題の地図が捨てられていたのだ。赤い印のついた、M町の概略図である。
誰が地図を捨てたのか。なぜ捨てたのか。地図を捨てた人物は、犯人とイコールなのか。
水無月橋殺人事件には、いくつもの不可解な点が見受けられたが、地図の件もその一つで、後々まで多くの人々の頭を悩ますことになるのだった。
あなたは水無月橋について考えている。これから行くその場所、事件現場であるその橋のことを。バス停に捨てられていた地図には、赤い矢印が付いていた。
ある寒い冬の朝、水無月橋でひとりの男が命を落とした。あなたはざわめきが強まる駅舎から出て、宿に予約を入れる。そう、あなたはこの町に滞在する決心をしたのだ。
東京で会社員として働いていた市川吾郎が、ある晩上司の送別会の席から忽然と姿を消し、その一年後、東京から遠く離れたこの町の水無月橋で、事件の被害者として現れるまでの経緯を知るために。
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