「『想い』ってのは大変なものだよね」
彼女は気だるげに髪の毛を指で弄りながら、そんなことを言った。彼女の話はいつだって唐突に始まる。
「体重でも気にしているの?」
私が聞くと、彼は苦笑いしながら手を振って否定した。どうやら違ったらしい。
「違う違う、『重い』じゃあなくて『想い』のことだよ。イメージ、感情、そんなところ」
ああ、そっちのことか。私の頭の中で『重い』と書かれていた文字が変換されて『想い』と打ち込まれる。
「想いが大変ってのは、どういうこと?」
「いや、だってさ、たとえば、今、アジサイの葉の上で這っているカタツムリは、はたして生きることをくるしんでいるだろうか」
私は少し考えてみる。カタツムリの気持ちになってみる。自分がもしもカタツムリだったなら。きっと。
「苦しくは、ないんじゃあないかな」
彼らは特に何も考えていないだろう。ただ、何も考えてなくて、アジサイの上で歩いているに違いない。
「じゃあ、今、私の皿の上の蟹は何を考えているのかな」
「その蟹はもう蟹みそをさっき食べられたんだから何も考えられないよ」
「料理される前の蟹は?」
私はまた考えてみる。料理人の手に身体を持ち上げられて、ぐつぐつと煮えたぎる鍋が目の前に。そして、彼は私の身体を、その鍋に。
「怖いんじゃあないかな。それか、怒ってるか」
「へえ、怒ってるって、何に?」
「人間に、でしょ、たぶん」
私は蟹になった気持ちで考えてみたけれど、私の言い分を聞いた彼女は首を横に振る。どうやら、違ったらしい。
「違うよ。彼らはね、心なんてないんだ。カタツムリも、蟹も、ただ生きるという本能に従って生きているだけ」
食べられる時も、彼らは怒りなんて抱かない。ただ、生きるために逃げようとして、それでも結局、こうなるんだけれど。彼女は手に持った蟹の手で皿の上を指した。
「君はどうして、蟹が怒っていると思ったのかな」
「え、いや、それは蟹の気持ちになって考えてみて」
「蟹の気持ちになるっていうのが、間違いなんだよ」
蟹に気持ちなんてないんだから。彼女は呆れかえったように私に言う。それに。
「食べられることに対して怒りを感じる、というのも、人間の常識に当てはめた考え方だね」
彼らは命が尽きるその瞬間にすらも、何も考えることも、感じることもないんだよ。
「それは、なんだか哀しいね」
私はどう答えればいいかわからず、絞り出したようにそう答えた。しかし、どうやらその言葉は彼女の何かに触れてしまったらしい。
「哀しい? どうして?」
それはね、君、彼らが生きていること自体を哀しいって言っているようなものだよ。彼女はそう言って、珈琲を飲むと、目をかすかに伏せて小さく呟いた。
「私は、カタツムリや蟹に生まれたかったよ。人間じゃあなくて」
想いがあることの苦しみ
「よく考えることがあるの。人間はどうして考えるようになったんだろうって」
そもそも考えなければ、こんなことを考えないんだろうけれど。彼女は肩を竦める。
隣の席の人たちに視線を移した。スーツを着た二人のサラリーマンが仕事の愚痴をこぼしている。
その奥の席では、恋人に振られたのだろうか、女性が一人でグラスを傾けている。その目から時折涙の粒が零れていた。
その女性の隣の席では、どんよりとした陰気な目をした男が黙ったまま思いつめたように何もない机の上を見つめている。
「誰もが不安と苦しみを感じながら、毎日を生きている。たまにある小さな楽しみのためだけに、苦しい人生を過ごしているんだよ」
いっそのこと、『想い』なんてなくなれば、こんなことを考えないでも済むかもしれないのにね。
「『化物語』、知ってる?」
「うん」
「戦場ヶ原さんみたいに『重い』なんてなくしてしまえば、そう思うよ」
彼女はそう言って、はあ、とため息を吐いた。しかし、私は彼女の言葉を聞いて、ふと彼女が本当に言いたかったのはこれなのではないかと気づいた。
結局のところ、哲学みたいなことを言っても、よくわからない言葉で煙に巻こうとも、彼女は一介の女の子でしかないのだ。
「帰り、ちょっと遠回りする?」
彼女は食べ終わったばかりの自分のお腹をさすりながら、私の言葉に素直に頷いた。
怪異に翻弄される悩みを抱えた少年少女たち
戦場ヶ原ひたぎは、クラスにおいて、いわゆる病弱な女の子という立ち位置を与えられている。
しかし、病弱とはいっても、貧弱というイメージはない。線の細い、触れれば折れそうなたおやかな感じで、その言葉の雰囲気は、戦場ヶ原に相応しいように、僕にも思われた。
戦場ヶ原はいつも教室の隅の方で、ひとり、本を読んでいる。頭は相当いいようで、学年トップクラス。
友達はいないらしい。ひとりも、である。いつだって戦場ヶ原は、そこにいるのが当たり前みたいな顔をして、己の周囲に壁を作っているのだった。
そこにいるのが当たり前で。ここにいないのが当たり前のように。まあ、だからといって、どうということもない。
たとえ三年間一言も言葉を交わさない相手がいたところで、僕はそれを寂しいとは思えない。
一年後、高校を卒業して、そのときにはもう、戦場ヶ原の顔なんて、思い出すこともないし――思い出すこともできないのだろう。
そう思っていた。しかし。そんなある日のことだった。
例によって遅刻気味に、僕が校舎の階段を駆け上がっていると、ちょうど踊り場のところで、空から女の子が降ってきた。
それが戦場ヶ原ひたぎだった。
それも正確に言うなら、階段を踏み外した戦場ヶ原が後ろ向きに倒れてきたのだろうけれど、僕は、咄嗟に、戦場ヶ原の身体を、受け止めた。
避けるよりは正しい判断だっただろう。いや、間違っていたのかもしれない。何故なら。
咄嗟に受け止めた戦場ヶ原ひたぎの身体が、とてつもなく、軽かったからだ。ここにいないかのように。
そう。戦場ヶ原には、およそ体重と呼べるようなものが、全くと言っていいほど、なかったのである。
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