これは世界の秘密についての物語『天気の子』新海誠

　手に持った傘を、雨粒が激しく叩く。足元の水たまりに、無数の波紋が浮かんでは消えていった。黒い雲の渦巻く空を、私はぼんやりと眺めていた。

　故郷から連絡が来たのは、ついさっきのことだ。浸水が起こり、断水したらしい。今まで台風の時でも大した被害のなかった地元がそんな風になるなんて、想像すらもしていなかった。

　ニュースでは、前代未聞の豪雨被害が出ているという。私が住んでいる地域は浸水こそなかったけれど、坂道に勢いよく水が流れていた。

　もう数日間、雨は降り続いている。勤めている店ではもう、断水に備えた水タンクを求める客がたくさん押し寄せてきていた。すでに売り切れだと、何度説明しただろう。

　今まで経験したことのない雨。それはまるで、好き勝手していた人間に、とうとう自然が怒り出したかのようだった。

　各地で起こる土砂崩れ。ニュースが変わり果てた光景を映し出している。見覚えのある道が、完全に水の中に沈んでいた。

　それを見て思い出したのは、新海誠先生の『天気の子』だ。小説の方。映画はまだ見れていない。けれど、あの映像美は記憶に焼けついている。

「今から晴れるよ」

　家出少年の帆高は、祈るだけで必ず天気を「晴れ」にしてしまう晴れ女、天野陽菜と出会う。

　激しい雨の降る暗い雲に切れ間が見えて、眩しい日の光が東京の街並みを明るく照らしていく映像を見た時は、思わず肌が粟立つような感動を覚えたものだ。

　それ以来、私はよく空を見上げることが多くなった。それまでは気にもかけなかった天気が、とても美しいもののように思えたのだ。

　風に流される巨大な入道雲。薄い雲の隙間から柱のように伸びる日の光。空を切り裂くように走る稲光。

　空はいろんな顔を見せてくれる。知ってはいたけれど、そのことを改めて実感したのは、久しぶりのことだった。

　普段は日常に巻き込まれて、空を見上げることすらできない。だからこそ、その天気の美しさは言葉を失うほどだった。

　それが今、空は黒い渦を巻きながら雨を落としていくばかり。その姿は美しく、そしておぞましいものだった。

　天気で人の心は簡単に左右される。雨が降ると鬱々とし、空が晴れると心も晴れるような気がする。

　けれど、もしも、この雨を終わらせる晴れが何かの犠牲によって生まれたのなら、それを素直に喜ぶことができるだろうか。

　きっと、私は帆高のような選択はできない。自分の全てを放り出しても、その手を掴むことなんて、もうできる気はしなかった。

　私はたぶん、須賀の立ち位置だろう。いや、私だけでなく、多くの人が。自分が本当に掴み取りたいものを諦めた時、私たちは無鉄砲さを忘れて、須賀のような「大人」になるのだ。

　気づけば、黒い雲に切れ目が入っていた。降り注ぐ日差しの梯子からは、多くの人の喜びと、たったひとりの悲鳴が響いたような気がした。

家出少年が出会う晴れ女

　三月の雨空に、フェリーの出港を知らせる汽笛が長く響く。このフェリーで東京に向かうのは、人生で二度目だ。僕は立ち上がり、デッキテラスへの階段に向かう。

　「あいつには前科があるらしい」とか、僕が学校でそんな噂をされるようになったのは、二年半前の東京での出来事がきっかけだった。

　僕はあの夏の東京での出来事を、島の誰にも話さなかった。断片的に語ったことはあるけれど、本当に大事なことは親にも友人にも警察にも放さなかった。

　あの夏の出来事をまるごと抱えたまま、僕はもう一度東京に行くのだ。十八歳になった今、今度こそあの街に住むために。もう一度あの人に会うために。

　デッキテラスに出ると、冷たい風が雨とともにどっと顔を打った。視界の遥か彼方まで、数えきれない雨粒が舞っている。

　その途端、ぞわりと、全身の肌が粟立った。まただ。思わずきつく目を閉じる。この二年半、雨は常にそこにあった。

　ゆっくりと息を吐きながら、僕は目を開ける。雨。呼吸をするようにうねる黒い海面に、雨が際限なく吸い込まれていく。

　僕は手すりをぎゅっと掴む。鼻から深く息を吸う。そしていつものように、あの人のことを思い出す。

　彼女の大きな瞳や、よく動く表情や、ころころ変わる声のトーンや、二つに結んだ長い髪を。

　そして、大丈夫だ、と思う。彼女がいる。東京で彼女が生きている。彼女がいる限り、僕はこの世界にしっかりと繋ぎ止められている。

　「だから、泣かないで、帆高」と、あの時、彼女は言った。逃げ込んだ池袋のホテル。天井を叩く雨の音が、遠い太鼓のようだった。

　本当の僕たちは今もあのホテルにいて、僕はたまたまのデジャヴのように、未来の自分がフェリーに乗っている姿を想像しただけなのではないか。

　汽笛が鋭く鳴った。違う、そうじゃない。今はあの夜ではない。あれはもうずっと前のことだ。

　フェリーに揺られているこの自分が、今の本当の僕だ。きちんと考えよう。最初から思い出そう。雨をにらみながら僕はそう思う。

　僕たちに何が起きたのか。僕たちは何を選んだのか。そして僕は、これから彼女にどういう言葉を届けるべきなのか。

　すべてのきっかけは、そう、たぶんあの日だ。彼女が最初にそれを目撃した日。彼女が語ってくれたあの日の出来事が、すべての始まりだったんだ。

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