俺はよく上を見上げて歩いていた。涙が零れないように、ではない。空にいる、誰よりも愛している恋人の、笑顔が見たかったからだ。
俺が空を見上げるようになったのは、七沢またり先生の『火輪を抱いた少女』という本を読んだからだった。
きっかけは友人から面白い作品だとおすすめされたからだ。彼は小説投稿サイトで読んだらしく、俺にそのURLを教えてくれた。
俺が奇妙に思ったのは、友人がそこまで本を読むようなタイプではないからだった。しかし、その理由はその作品を読んでみてわかった。
友人は勉強が得意ではないが、歴史は好きだ。特に、戦国時代や世界大戦期における作戦や戦略が好きらしい。
七沢またりという作家の作品は戦記ものが多かった。なるほど、いかにも友人が好きそうな作風である。戦場の生々しさや上層部の思惑の錯綜など、戦い以外の場面も臨場感があった。
そして、彼から薦められた『太陽を抱いた少女』もまた、そういった戦記もののひとつだった。
ところが、俺はストーリーではなく、主人公の少女に惹きつけられた。読書嫌いの俺がその本を読みきったのは、彼女を追いかけていたからである。友人は思惑と違って微妙な表情をしていたが。
主人公のノエルは太陽が大好きな少女だ。晴れていると気分が浮上し、雨が降っていると落ち込むのは誰しもあることだが、彼女のそれはより顕著だ。
太陽が出ていれば明るい性格の能天気な少女なのに、雨が降っているとどんよりとした暗い瞳で荒々しく吐き捨てるのだ。
それまでの俺は空なんて見ようとしなかった。雨が降ればだるいなと思うくらいだが、むしろ、太陽が出ていると蒸し暑くて憎らしく思っていた。
その考えが変わったのは帰り道に、河川敷で、ふとノエルを思い出して空を見つめてみたのだ。目の前に迫る光景に、俺は思わず目を見開いた。
地平線に浮かぶ黄色い太陽が、世界を黄金色に染め上げていたのだ。それはまるで黄金都市が目の前に現れたかのような美しさだった。
透き通るような橙色の空に、揺らめく太陽が微笑んでいた。その全てを受け入れる微笑を見た時、俺は太陽にひとめ惚れをしたのだ。その時の感動を、俺は一生忘れはしないだろう。
俺が空を見上げるようになったのはその頃からだった。それまでよく絡んでいた悪友は空ばかり見ている俺を怪訝そうに見ていたが、そんな視線なんて何も気にならなかった。
彼女はいつだって空から俺を見守っている。雨の日にはその顔が見れなくて残念だが、晴れた日に空を見上げれば、いつでもその丸く福々しい笑顔がそこにいた。
今まで俺は真面目な生徒とは到底呼べなかったが、それ以来、俺は真面目に授業を受けるようになり、サボることも、悪い仲間とも絡むこともなくなった。
クラスメイトや教師は俺がおかしくなったという。だが、俺はおかしくなってなんかいない。ただ、誰もがそうであるように、仄かな恋の温かさを知っただけなのだ。
愛する人が空からいつも俺を見ているのに、不真面目なことなんてできるわけがない。俺が真面目になっていくと、彼女が嬉しそうに笑っているような気がして俺まで一緒に嬉しくなった。
やがて、俺は愛する彼女に近づきたいと思うようになった。遠くから眺めるだけでは満足できなかった。あの丸い頭をこの腕で抱きしめたかった。その微笑に口づけを交わしたかったのだ。
俺は彼女のそばに行くため、ひそかに計画を立てた。夜の間にだけ行動していたのは彼女を驚かすためだ。喜んでくれるだろうか。いや、きっと喜ぶに違いない。
太陽はいつだって孤独だ。俺だけが彼女の隣りに立つのだ。いつかの河川敷で見たような輝かしい未来が、俺の目の前に広がっていた。
俺は学校の屋上に立つ。自分が立ち入ることができる場所の中で、もっとも彼女に近かったのがその場所だ。
彼女は驚いているようだった。それもそうだろう。俺はそのために、彼女に知られることがないよう、彼女が眠る夜の間にだけ準備を進めていたのだから。
俺の背中に生えているのは蝋から作った翼だ。白い翼はまるでコンドルのように力強く、羽ばたくと一陣の風が渦巻いて俺の髪を吹き上げる。
よく見ていてくれ。今から俺は、君のもとへ行こう。もう君はひとりじゃないんだ。
俺は屋上から空に向かって飛び立つ。地面に向かってそのまま落ちていくように見えた身体が、翼の羽ばたきひとつで大きく浮かび上がった。
俺は広大な空を飛び回る。吹きつけてくる風が心地よかった。はるか遠くの下から誰かが騒ぐ声が聞こえたが、気にならなかった。
俺は空を見上げる。力を込めて羽ばたくと、俺の身体はさらに空の彼方へと飛び上がった。空を飛んでいたカラスが、俺の足の下から黒い瞳で俺を見上げていた。
俺はさらに羽ばたいて勢いよく真っ白な雲の天井を突き抜ける。翼の羽ばたきに巻き込まれた雲が俺の周りで螺旋状に渦を巻いた。
雲を抜けた場所にいたのは俺と彼女だけだった。何の音もない、寂しい場所。彼女はずっと、こんなところでひとりだけで過ごしていたのだ。
俺は彼女に近づく。ようやくだ。ようやく、彼女をこの手に抱きしめることができる。
しかし、彼女は笑っていなかった。俺は怪訝に思う。なぜだ。俺が来たことが、嬉しくないのか。
俺がそう思ったその時、俺の身体が大きく傾いた。羽ばたいても姿勢を戻すことができない。何が起こった。俺は自分の背中に広がる翼を見て、目を見開いた。
蝋で作った翼が溶けていたのだ。右の翼はもう半分すらも残っておらず、左の翼からも白い雫が垂れている。
俺は彼女を見た。彼女の熱が原因だった。もう彼女は笑ってはいなかった。ただ、赤く燃えるだけだ。俺を地に突き落とすために。
俺は悟った。彼女は孤独だった。孤独であることを愛していた。誰も自分のそばにいないことを誇り、高みから見下ろす全てを愛していたのだ。
自分に近づく存在を、彼女は愛していない。だから、彼女はずっと燃えているのだ。自分に、誰ひとり、近づけないようにするために。
俺はようやくそのことに気付いたが、手遅れだった。限界が近づいていたのだ。
もうすでに右の翼は残っていない。すべて溶けきってしまった。左の翼も、半分しか残っていない。
俺は手を伸ばした。彼女に、助けてくれと叫んだ。俺が悪かった。もう近づこうとなんてしない。だから、助けてくれ、と。
果たして、彼女は俺を見つめただけだった。いつもと同じ、自分よりも下のものを見下す微笑で。俺は言葉を失くして、その笑みを呆然と見つめた。
とうとう、翼がなくなった。俺の身体が、重力に従って落ちていく。最後に俺が見たのは、何よりも美しく、何よりも残酷な彼女の黄金色の光だった。
赤い髪の少女は槍を振るう
少女がいつからここにいたのかはわからない。気がつけばこの古びた教会の中で暮らすのが当たり前になっていた。
教会の外には広場があり、それを囲うように巨大な壁がそびえ立っていた。外界との出入り口は正門だけであり、そこには常に武装した衛兵が睨みをきかしている。
外の世界を感じることができるのは、空を見上げればそこにある大きな丸いもの――燃えるように赤く輝く太陽を見上げた時だけだった。
同じ部屋になった150番の少女は一番の友だちだった。彼女が持ってきた絵本は、ノエルというヘンテコな猫が、村を飛び出して世界を旅してまわるという物語。
彼女に絵本を読んでもらうたびに、少女はひとつの夢を抱くようになった。猫のノエルのように、自分も幸せになりたいと。
「もし生きてここから出られたら、一緒に探そうよ」
少女が強く頷くと、約束だよと150番は辛そうに薄く笑った。しかし、150番はそれきり目を覚まさなかった。少女は絵本を形見にすることにした。
終わりの日がやってきた。先生はグラスに黒い液体を注いでいく。今までとは比較にならないほどの黒。
少女はグラスを嫌々飲み干したが、それが間違いだった。これで自分は終わりなんだということがわかった。少女の意識は闇に落ちていった。
目が覚めた時、そこは墓場だった。少女以外の子どもは誰も生き残っていなかった。
少女は誓った。150番との約束を守る、と。幸せになる方法を探して、みんなの分まで幸せになるんだ、と。
こうして、自分のことを「ノエル」と名付けた少女の、幸せを探す旅が始まった。
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