いつだって、俯いて歯を噛み締めていた。悔しい。けれど、ぼくは抗う術を知らなかった。
教室に入った途端、彼らのいやらしい笑みを浮かべた顔がぼくを出迎える。辿り着いた自分の机には、びっしりとマジックで汚い言葉が書かれていた。
ぼくはそれを見ないように、自分のカバンを置く。クラス中が話しているふりをしながらも、ぼくに注意を向け、ひそかに嘲笑を浮かべているのがわかった。
いじめられっ子。恥ずかしげもなく、ぼくのことを説明するならば、こういう言葉になるのだろう。
きっかけはすでに覚えていない。きっと、大した理由もないのだろう。彼らにとって、そんなのは重要なことではないのだから。
気がつけば、ぼくはいじめられていた。今朝のようなのはまだ序の口で、体育館裏に呼び出されることすらある。
毎日が辛かった。彼らの言葉のひとつひとつ、態度のひとつひとつがぼくの心を突き刺していた。
耐えろ。耐えるんだ。逆らっても、どうせいいことはない。ぼくが彼らよりも勝ることなんて、なにひとつとしてないのだから。
どうして心なんてものがあるんだろう。心なんてものがなければ、こんなに苦しくなることなんてないのに。
このまま苦しみ続けるならば、いっそ。そう思ったことすらある。けれど、それをするのはなおさら彼らの思い通りになるようで、それだけは嫌だった。
耐えてればいいんだ。嵐だって、いずれは過ぎ去る。新学期になれば。新しい季節が巡れば。新しいクラスになれば。卒業してしまえば。
解放されるその時を待ち望んで、しかし、それまでにぼくの心は何度刺されることになるのだろう。たったの三年。それがぼくには永遠にも等しい時間に思えた。
学校に隕石でも降ってこないだろうか。そうして、あいつらがみんな潰れてしまえばいいのに。
彼らの不幸をいつだって願っていた。けれど、不幸になるのはぼくばかりで、彼らは毎日を楽しそうに過ごしている。ぼくというサンドバッグを痛めつけて高笑いしている。
川原礫先生の『アクセル・ワールド』と出会ったのは、そんな鬱々とした毎日の最中だった。
変わりたいという意思
『アクセル・ワールド』を手に取ったのはほんの気まぐれだった。強いて言えば、表紙に惹かれたのである。しかし、すぐにその世界に魅了されるようになった。
ニューロリンカーという技術が発展し、仮想空間を作り出す技術が発展した近未来が舞台になっている。
主人公のハルユキは、学校でも有名な美女である『黒雪姫』と呼ばれている女性から、『ブレイン・バースト』というプログラムを紹介された。
それは意識だけを加速させる技術を利用した対戦格闘ゲームだ。ハルユキはその戦いの波紋に、否が応にも巻き込まれていくことになる。
ぼくがその本に深く共感したのは、主人公のハルユキがぼくと同じように、苛烈ないじめに耐える太ったいじめられっ子だったからかもしれない。
彼もまた、諦めていた。現実の自分を諦め、人からの好意すらも拒絶するほどの卑屈と自己嫌悪に囚われていた。
彼は『黒雪姫』との出会いによって、その檻を壊すのだ。しかし、ぼくは彼女をはじめとする人との出会いだけが彼を成長させたわけではないと思う。
『黒雪姫』はあくまでも彼に可能性を示しただけだ。彼女の差し出す手を取ったのは、他ならぬハルユキ自身。
ハルユキが変わろうとして、勇気を振り絞ったからこそ、彼の現実は次第に良いものへと変わっていったのだ。
ぼくも彼のようになれるだろうか。ぼくの心にも、彼と同じ劣等感や卑屈が棲みついている。
フィクションの物語だと言えば、それまでだ。ぼくには『黒雪姫』みたいな存在はいない。けれど。
ぼくの心の内に生まれた、この、変わりたいという想いは、決してフィクションではない。本物だ。
変わりたいと願っても、願うだけでは何も変わらない。彼のように勇気を出して行動しないと、自分も世界も何も変えることはできないのだ。
『アクセル・ワールド』のように仮想世界に逃げ込むことなんてできない。ここには現実しかないのだ。だったら、現実を変えるしかない。
物語には届かないかもしれないけれど、現実でも、ほんの少しがんばれば、きっと今よりもちょっとだけ速くなった世界が見られるのだから。
加速世界と黒雪姫との出会い
仮想黒板の右上に、黄色い手紙マークが点滅した。授業中にぼんやりしていたハルユキは、思わず首を縮めながら、両目の視点を移動させた。
届いたメールは自分をいじめている荒谷からのパンを買ってこいという命令だった。母親からもらった昼食代は完全に足が出てしまう。今日ばかりは昼食抜きで耐えるしかないだろう。
ハルユキが向かったのは専門教室ばかり並ぶ第二校舎だった。埃っぽい廊下の隅にある男子トイレが、ハルユキの専用隠れ家だ。
ハルユキは洗面台の上の鏡を見やった。曇ったガラスの向こうから見返すのは、太ったいじめられっ子。
この外見を何とかしようと、ダイエットにまい進した時期もある。しかし、その結果、昼休みに貧血で倒れ、以来、ハルユキは現実の自分を捨てることに決めたのだ。
唱えるのは、重苦しい身体から魂のみを解き放つ魔法の呪文。音声コマンドを受け取ったニューロリンカーによって現実が遮断され、フルダイブ時に用いられるアバターが生成されていく。
黒いひづめ状の手足。ぷっくりした四肢と、ボールのような胴体は鮮やかな桃色。ひとことで形容すれば、ピンクのブタである。
全力ダッシュで駆けこんだ先は、レクリエーションルームが設置されている大樹の一本だった。辿り着いたのは、《バーチャル・スカッシュ・ゲーム》のコーナーだった。
ハルユキは、一学期の中ほどから昼休みはひたすらこのゲームで時間を潰してきた。結果、スコアはあきれるような数字に達しつつある。
ゲームスタート、の文字に続いてどこからともなくボールが降ってくる。それを、今日一日の鬱屈を込めたラケットで思いきり叩く。
もっと――もっと加速しろ。仮想世界も、現実すらも、あらゆる壁をぶち抜いて、誰もいない場所へ行けるほど――速く!
すかっ、とラケットが空を切った。ゲームオーバーの文字が降ってきて、コートでぼよんぼよんと弾む。
目を開け、ハルユキは全身を凍りつかせた。コートの中央に表示されているフォントが、記憶と異なる数字を表示させていた。ハルユキが更新したレベルを上回っている。
「あの馬鹿げたスコアを出したのはキミか」
その時。背後で、声がした。おそるおそる振り向いたハルユキの目の前に立っていたのは。《黒雪姫》と呼ばれている学校一の有名人だった。
「もっと先へ……《加速》したくはないか、少年」
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