親友の夢を引き継いで『ムシウタbug』岩井恭平


 空っぽになった病室を、私は呆然と眺めていた。整えられたベッドを見て、ぼんやりと思う。もうここに、彼女はいないのだ、と。

 

 

 彼女と出会ったのは、今学期の最初の頃のことだ。新しいクラスの中で、彼女はいつだって誰も座っていない空席でしかなかった。

 

 

 その席に座るはずだったまだ見ぬクラスメイトはやんごとならない事情で入院しているのだということを、教師が話しているのを聞き流していた。

 

 

 退院して通ってこない限りは関わり合いになることもないだろう、と。そんなことを考えていたのだ。

 

 

 しかし、私の目論見は外れた。きっかけをあえて言うならば、ぼうっとしていた間に、前のクラスで務めていたことを理由にクラス委員を押し付けられたことだろう。

 

 

 私のクラス委員としての最初の仕事は先生から命じられた、まだ見ぬクラスメイトにお見舞い、もといプリントを渡しに行くことだった。

 

 

 いっしょに行くはずだった男子の委員は当然のようにサボった。まあ、異性の病室には行きづらかろう。先生もとやかく言わなかった。かくして、私ひとりだけで向かうことになったのである。

 

 

「ありがとう。来てくれて」

 

 

 ピンク色のパジャマを着たその子は、大人しい、優しげな笑顔を浮かべた柔らかな雰囲気の少女だった。肌が透けるように白く、触れれば壊れそうなほど痩せていた。

 

 

 きれいな子。まず思ったのは、そんなありふれた感想だった。手ぶらもまずかろうと思って、私が適当に選んだ花を嬉しそうに飾る姿は、まるでどこかの令嬢のようだ。

 

 

 それが彼女との初めての出会いだった。数分間だけの邂逅だ。しかし、彼女の係に任じられた私は、その後も頻繁に彼女の病室を訪れることになった。

 

 

 最初の頃こそぎこちなかった会話も、氷が解けるようにだんだんと打ち解けていき、やがて何年も友達であったかのように仲良くなった。

 

 

 ともすれば、クラスの誰よりも仲が良かったかもしれない。私たちは親友だった。

 

 

「私、生きたいの」

 

 

 あなたといっしょに学校に行きたい。彼女は自分の夢を語ってくれた。私にとってはむしろ面倒なことすらある学校が、彼女にはひどく眩しいことだったのだ。

 

 

 けれど、結局、彼女はそんな願いすらも、叶えることができなかった。症状が悪化してからはそう時間はかからなかった。

 

 

 最期の彼女の表情には、苦しみも、悔恨もないように見えた。まるで眠っているように。けれど、彼女はもう、目覚めることがないのだ。

 

 

夢を受け継ぐ

 

 彼女がこの世にいないことが、私には信じられなかった。胸の内に生まれた喪失感が、私の大切なものを根こそぎ奪っていったかのように、何もする気が起きなかった。

 

 

 ふと、ベッド脇に、一冊の本が置いてあるのが見えた。彼女が生前、よく読んでいた本だった。たしか、題名は『ムシウタ』だったか。

 

 

 人知を超えた力を与える代わりに夢を食べるという”虫”が社会の裏側でひそかに鳴動している世界で、夢を守るために戦い続ける少年少女を描いたファンタジー作品らしい。

 

 

 けれど、彼女が好きなのは、本編ではなく、過去編となる『ムシウタbug』だったらしいけれど。

 

 

 彼女が言うには、その作品に出てくる摩理という少女が、自分の境遇と重なるのだという。

 

 

 その少女は彼女と同じ病弱で、先が長くない身体だった。彼女は生きるために『不死の虫憑き』を探し続けたが、永遠の眠りにつく。

 

 

 そんな摩理の想いは、彼女の”虫”であるモルフォチョウとなって親友の亜梨子へと受け継がれることとなる。そんなストーリーだと説明してくれたはず。

 

 

 たしかに、摩理は彼女に似ていた。境遇も、病に侵されていたことも。けれど、治らないままいなくなってしまうところまでいっしょじゃなくてもいいのに。

 

 

 胸中に暗い願望がじわじわと染み出していくのを感じた。彼女がいないのに、なぜ生きているのかという疑問。私が生きている意味があるのかという問いかけ。

 

 

 そんな思いを誤魔化すように本を手に取って、ぱらぱらとめくってみる。本を読むのはあまり得意ではないけれど、彼女が大好きだったこの本は読んでみようと思ったから。

 

 

 すると、ページの隙間から小さな紙切れが落ちた。私の名前が書いてあって、私が慌てて拾い上げる。

 

 

「私の夢を、あなたに託すね」

 

 

 それは彼女から私への手紙だった。書かれていたのは、たった一言だけ。それを見て、私の胸中の暗闇が透き通っていくのを感じた。

 

 

 ひどいことをするものだ。私は思わず親友に苦笑した。彼女はきっと、自分がいなくなった後の私がどうするか、知っていたのだろう。だから、こんな手紙を遺したのだ。

 

 

 生きたい。それが彼女の夢だった。私にそれを託すということは、私に生きてくれと、彼女は言っているのだった。

 

 

 私は彼女からの手紙をぎゅっと胸に抱きしめる。どうやら、私は全力で生きなければいけないらしい。なにせ、私の命には彼女の夢もいるのだから。

 

 

 私は決意した。とりあえず、彼女が好きだった『ムシウタ』を読んでみよう。夢を持って生きていくことが、どういうことかわかるはずだから。

 

 

”虫”とはなにか

 

 朝日が降り注ぐ道路を歩きながら、一之黒亜梨子は大きなあくびをした。西園寺恵那と九条多賀子。二人のクラスメートの間の姿を見つけ、並んで歩いていた二人の少女の間に、飛び込む。

 

 

 多賀子をからかって、亜梨子と恵那は笑い出す。だが、唐突に、恵那の笑い声が消えた。嫌なことを思い出したのだという。

 

 

「昨日の放課後、うちの学校に出たんだって」

 

 

「出た? なにが?」

 

 

「”虫”」

 

 

 ”虫”――。その存在が噂され出したのは、およそ十年ほど前からだと聞いている。外見が昆虫に似たその異形の存在は、人に寄生し、人間の夢を喰って成長するという。

 

 

 亜梨子はかつての友人に思いを馳せていたが、ふと、多賀子の様子がおかしいことに気付く。

 

 

 聞いてみると、彼女は校内で怪しい男を見かけたのだという。同学年の男子生徒が入院したことを担任の口から聞いたのは、朝のホームルームでのことだった。

 

 

 これから六限目の授業が始まる頃、亜梨子はひとりで東棟にいた。三階の事件現場へと向かう。その光景を見て、亜梨子は息を呑んだ。廊下の奥に、徹底的な破壊の痕があった。

 

 

 亜梨子はそこで男の声を聞く。亜梨子はモップの柄を手にし、彼が誰かと通話する声を聞いていた。

 

 

「――誰か、いるのか?」

 

 

 見つかった――そう悟った直後には身体が動いていた。習ってきた武術で男を抑え込む。

 

 

 ホルス星城学園の制服を着ている少年だった。手には携帯電話を掴んでいた。しかし、彼を問い詰めていた時だった。どこからか、悲鳴が聞こえた。

 

 

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