正しさのおぞましさ『猫物語 黒』西尾維新


 黒い雨が大地に降り注ぐ。さながら、かの人の最期を世界が悲しんでいるかのようだった。

 

 

 私の裏切りを知った時の、彼らの瞳を思い出す。失望した者、憤怒に染まった者、放心した者、悟ったような者、責めた者。

 

 

 かつてはともに同じ人の弟子となって学び、切磋琢磨した仲だった。彼らを友として尊敬していた。

 

 

 楽しかったあの頃を思い出す。あの頃の私は、若く、そして愚かだった。愚かだったがゆえに、幸せだった。それはもう、帰ってくることはない。

 

 

手に持った手提げ袋が重たく感じた。しかし、それが少しも嬉しくない。むしろ、今すぐにでも捨ててしまいたいほど煩わしかった。

 

 

 揺らすと、中に入っている銀貨が音を立てる。あのいけ好かない老人どもから報酬として受け取った銀貨だ。

 

 

 これは私の罪の証だ。あの人が十字架を背負ったのと同じように、私もまた、この罪を背負って生きていくことになるだろう。

 

 

 あの人の最期を思い出す。あの人との出会いと別れが走馬灯のように頭の中を巻き戻っていく。

 

 

 仲間たちとの最後の晩餐。彼はこの中に裏切り者がいると言った。それを聞いた時の、私の絶望、そして恐怖。

 

 

 彼は私が裏切ったとわかっていた。すべてを理解していた。それなのに、あの人は私を責める言葉などは一言たりとも言わなかった。

 

 

 最後の最後まで、あの人の瞳は森の中の湖畔のように穏やかで、静謐に満ちていた。

 

 

 命の炎が消えゆくその瞬間を遠く過ぎ去っても、私をあの清純な瞳が私を見下ろしている。あの人は、今もまだ、私のそばにいるのだ。

 

 

 許していないわけではない。むしろ、何を許すというのかわからないだろう。それこそがあの人の美徳であり、悪徳だった。

 

 

 いっそ責めてくれればよかったのだ。どうして裏切ったのだと。いっそ無様に憤怒してくれればよかったのだ。

 

 

 あの人は今も私のことを怒ってなどいない。責めてもいない。あの静謐な瞳は、そんな醜い色を宿さない。

 

 

 どこまでも透き通った瞳。清すぎる水は、むしろ人を蝕む。あの人の冷たさは、人間的な感情すらも持ち合わせていない。

 

 

 私は彼を尊敬していた。彼の弟子となったことを嬉しく思ったし、今でも彼のもとで学びたいとすら思っている。その機会を損じたのは私自身であるというのに。

 

 

 黒い雨が私の身体を濡らす。ああ、見たまえ。あなたと私は違う。私はこれほどまでに、醜く、汚い。

 

 

 だからこそ、私はあなたを裏切ったのだ。裏切らざるを得なかったのだ。

 

 

聖人の隣り

 

 彼は偉大な人だった。周りの人間が彼を神として崇めるほどに。私もまた、彼とともにあれることが幸せだった。

 

 

 彼は天賦の才を持った優秀な人間だった。彼はあらゆることの先を見通す頭脳と、多くの人を導くカリスマ性を持っている。

 

 

 だが、神ではない。いかに優れた人間であろうとも、神にはなれない。彼を神に祭り上げるのは、彼に対する冒涜だろう。私はそう信じ、彼を人として見定めた。

 

 

 しかし、だからこそ、次第に彼の決して曲がることのない正しさを目にし、私自身の汚濁を知るところとなったのだ。

 

 

 聖人はいつだってひとりだ。なぜか。私はその理由を初めて知った。

 

 

 人は彼らの正しさに耐え切れないからだ。彼らを見ることは、その正しさを通して私自身の醜さを見せられていることと同じだった。

 

 

 いっそ、彼らのように彼を神として見れたならば、こうまで苦しくはなかったのだろう。彼を人間ではない存在だと見たならば。しかし。

 

 

「しようとしていることを、今すぐしなさい」

 

 

 それは、神となってしまった男の、人としての最後の願いではなかったか。金銭の取引を装った私の浅ましさすらも、彼は見抜いているかのようだった。

 

 

 あの静謐な瞳が、常に声ならぬ声で私の濁りを責め続けていた。あの背後に差す後光の前に、私は醜さを晒したくはないのだ。

 

 

 あの人を尊敬していた。だからこそ、あの人が憎かった。あの人がいなくなりさえすれば、私の醜さを照らされないでよくなる。

 

 

 そう信じていたのに、あの人がいなくなった時、私は理解してしまった。私自身の醜悪さを。世界の残酷さを。人間という生き物の汚濁を。

 

 

 きれいなものなど、ひとつとしてなかった。彼だけが、この世界で唯一、きれいなものだったのだ。それを私は自分の手で損なってしまった。

 

 

 黒い雨は悲しみなどではない。最初から降っていたのだ。彼の背後にだけ、日の光が射し、暖かな木漏れ日に満ちていたのだ。

 

 

 私は自分の手元を見下ろす。裏切りの対価として背負うことになった銀貨。雨でも洗い流せることのない私の罪。

 

 

 私はその袋を、崖の下へと投げ捨てた。師を裏切ってまで手に入れた銀貨が、闇の中へと消えていく。それでも構わない。もう、使うことはないのだから。

 

 

 あの人は、怒るだろうか。いや、怒るだろう。正しい彼ならば、私のしようとしていることを叱るに違いない。私は顔を歪めて笑った。

 

 

 私は彼の正しさが嫌いだ。心底気持ちが悪い。だから、これは私から彼への意趣返しだ。

 

 

 私は前へと歩き続けた。向かう場所は決まっていた。黒い雨の中に、聞こえるはずのないあの人の声が聞こえたように思えた。

 

 

猫に憑かれた少女

 

 羽川翼と想いの限り戯れた、あのゴールデンウィークのことを今さらのように思い出そう。

 

 

 羽川翼。十七歳。性別女。高校三年生。クラスの委員長。優等生。前髪をそろえた三つ編み。眼鏡。真面目、生真面目。善良。とても頭が良い。誰にでも公平に優しい。

 

 

 しかしそんな風にいくらわかりやすいキャラクター設定を言い並べたところで、あの例外的な彼女を表現できるだなんて、僕は考えていない。

 

 

 だから、たとえゴールデンウィークのことをこれから詳細に語り尽くしたところで、あの悪夢のような九日間の真実は、まったくもって誰にも伝わらないだろう。

 

 

 人間は前向きに生きていくべきで、積極的でなくとも究極的に生きていくべきというのが、強くて弱い戦場ヶ原ひたぎや神原駿河の価値観だ。

 

 

 綺麗でなくていい、と言う。生き汚くていい、と言う。貪欲でいい、と言う。そんな価値観は僕とは違う。

 

 

 そして、そんな僕と、羽川翼は一緒なのだ。僕と彼女の共通点。阿良々木暦と羽川翼の共通項。心の中の、同じ部分。

 

 

 羽川翼。異形の羽を、持つ少女。高校二年生から高校三年生に至るまでの、そんな頃。彼女は猫に魅せられた。

 

 

 だから僕はゴールデンウィーク以来――猫が苦手になったのだ。僕は猫が怖い。そう――羽川翼が怖いように。

 

 

 では、僕が昨日見た夢の話を聞いてほしい。

 

 

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