ファントムは誰?『”文学少女”と穢名の天使』野村美月


 誰もがその存在を天使だと讃え、その美しい声に涙していました。けれど、私は彼を怪物だと思うのです。

 

 

 私がその声を初めて聴いたのは、父に連れてこられた有名な劇場ホールの舞台でした。

 

 

 さて、となると、私の父が劇場好きなのかと思われるかもしれませんが、実はそんなことはありません。むしろ、父は演劇に対してはシニカルな見方をしていました。

 

 

 そもそも、劇場に来たかったのは母だったのです。しかし、急な用事が入ってしまい、よりにもよって興味の薄い父と私だけが来る事になった、というのが事の次第でした。

 

 

 母は劇場やコンサートが大好きですが、私と父は部屋の中で絵を描くことを好むような気性でしたので、父はふんと鼻を鳴らし、私は居心地の悪さで身を縮めておりました。

 

 

 演劇が始まっても、私と父は淡々とした視線を向けたままです。なにせ、興味がないのですから、演劇に没頭できるわけもないのでした。

 

 

 しかし、それはひとりの小さな影が出てきた途端、まさしく文字通りに一変したのです。

 

 

 今まで聞いたことがないような美しい声。私は一瞬、それが人間の声であることを疑いました。

 

 

 魂ごと掴み取るような圧倒的な声の前に、ホールにいた誰もが陶然としていました。まるで、壇上の影に恋をしているかのように。

 

 

 その影は少女のように見えました。絢爛なドレスに身を包み、仮面を被っています。そのミステリアスな雰囲気がいっそうその神秘性を高めているようでした。

 

 

 私はふと、隣に座っている父を見ました。皮肉屋の彼がこの声をどう笑うのか、気になったからです。そして、私は唖然としました。

 

 

 父が涙を流していたのです。その瞳は他の人たちと同じように壇上の声に向けられ、茫然とその姿を見ていました。

 

 

 私はその瞬間、背筋がぞっとするほどの寒気を覚えたのです。美しい声に対する感動などではなく、圧倒的な恐怖を。

 

 

 父が変えられてしまったことを、私は彼の瞳を見て、はっきりとわかったからです。この男はもう、私の知る父ではないのだと。

 

 

 演劇を冷笑し、ただ絵画にのみ打ち込み続けた父は、もういない。ただ、ここにいるのは、声に魅せられた、ひとりの哀れな男だけでした。

 

 

 芸術は時として残酷に、誰かの人生を大きく変えてしまうことがあります。私は絵画を嗜む者として、そのことをわかっていたつもりでした。

 

 

 しかし、私は父を絵画ではなく、声で変貌せしめられたことが悔しくてたまらないのでした。

 

 

 だって、それならば、今まで父が汗を流して打ち込み続けた絵画はいったい何だったのでしょう。今や、それはただの紙切れでしかなくなってしまいました。

 

 

 天使は果たして人を救うのでしょうか。ですが、人を昇天せしめ、人生に滅びを与えるのもまた、天使ではなかったか。

 

 

 もう、私も父も戻れない。私は思わず涙を流しました。私たちは決して触れてはいけない、天使の歌に触れてしまったのだから。

 

 

人を超えた才能

 

 野村美月先生の『”文学少女”と穢名の天使』を思い出します。地に堕ちた天使。過ぎた才能は破滅しか呼ばないものです。

 

 

 私が『オペラ座の怪人』を読んだのは、その本に影響されてのことでした。歌姫クリスチーヌとラウル、そして彼らを引き裂かんとするファントムの悲劇。

 

 

 以前は見向きもしなかったであろうその本を手に取ったのは、やはり私もあの歌声に変えられてしまったということでしょう。

 

 

 私と父があの歌声を聞いたのは数年前のことです。けれど、今もまだ、私たちの脳裏にはあの歌声が鳴り響いているかのようでした。

 

 

 父はあの日以来、アトリエにこもり、ドレスをまとった天使の絵を描くようになりました。描いては破り、描いては破り、を繰り返しているのです。

 

 

「だめだ、まただめだった。あの声を、絵に捉えきれていない……」

 

 

 ぶつぶつと呟きながらカンバスに向き合う父の姿を、私は見つめることしかできません。

 

 

 彼は、あの人知を超えた声を、カンバスの中に収めようとしていました。そんなことは、できないというのは明白であるにもかかわらず。

 

 

 それでも、父はせざるを得なかったのでしょう。今までの父の絵画はことごとく捨てられてしまいました。今や、声のない天使の絵だけがアトリエに立っているのです。

 

 

 以前は入り浸っていたアトリエにも、私は入れなくなりました。足を踏み入れると、変幻自在の声が四方の絵画から聞こえてくるような気がするのです。

 

 

 けれど、私は天使を怪物だとして恐ろしいものだと思っておりますが、同時に、その存在ほど悲しいものはないと思うのです。

 

 

 人間として存在することを許してさえくれない才能なんて。それはもう、怪人と呼ばれたファントムの顔と何ら変わらないのではないでしょうか。

 

 

 絵画の中に閉じ込められた天使が、哀しげな眼差しで私を見返してきました。その声は、もう何も聞こえない。私はその美しい喉元に、彫刻刀を突き刺しました。

 

 

姿を消したクリスチーヌ

 

 教室でぼくは友達になった芥川くんに愚痴を吐き出していた。遠子先輩から休部中のおやつの差し入れを要望されたからだ。

 

 

 新しく買った携帯の流れになったところで、クラスの女子たちに声をかけられる。と、そこへ、クラスメイトの琴吹ななせに用事があるという人物が訪れた。

 

 

 廊下にカジュアルなスーツを着た優しげな男性が立っている。去年の春から音楽を教えている毬谷敬一先生だ。

 

 

 毬谷先生は手を合わせ、琴吹さんに何か頼んでいるようだった。けれど、琴吹さんはろくに聞いていないようで、ぼくの方をちらちら睨んでいる。

 

 

 毬谷先生は急にぼくの方を見て、手招きした。戸惑いながら廊下へ行くと、音楽室の資料の整理を頼まれた。うっかり頷いてしまったぼくは、琴吹さんとともに先生の手伝いをすることになった。

 

 

 校舎が茜色に染まる頃、三人で音楽室を出た。職員室へ戻るという先生と、図書室へ行くという琴吹さんと別れて、歩き出そうとした時。ふと、視線を感じた。

 

 

 突き刺すような暗い眼差しが、こちらを見ている。けど、人の姿がない。階段の前で、周囲を見渡した時、頭上から風の唸りのような低い呟きが、舌打ちとともに聞こえた。

 

 

 背筋がざわつき、皮膚が粟立つ。視線を上に向け、四階に続く階段を、なめるように見つめる。けれど、そこには誰もいなかった。

 

 

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