最後の決戦を乗り越えたその後『続・終物語』西尾維新


 鏡の中の世界、という別の空間の存在を、私は子どもの頃、たしかに信じていたものである。

 

 

 きっかけはなんだったろうか、今ではよく覚えていない。鏡の世界なんてのは、いろんな作品で描かれている。

 

 

 でも、きっと、私が一番最初に触れたのは、やっぱりルイス・キャロル先生の『鏡の国のアリス』だろう。

 

 

 おかげで一時期、私は鏡に向かうのが怖くなった。いつ、その顔が笑いかけてくるか、気が気じゃなかったのだ。

 

 

 まあ、もちろん、そんなことはなく、鏡なんて光の反射を映すだけの板でしかないのだと知った今は、そんな恐怖もなくなったのだけれど。

 

 

 どうして私がそんなことを思い出したかというと、西尾維新先生の『続・終物語』を読んだからだ。

 

 

 鏡の国のアリスじゃないけれど、主人公の阿良々木暦が、何もかもが逆になった鏡の国の世界に迷い込んでしまうという物語。

 

 

 最終決戦を終えて高校を卒業した阿良々木暦の、最後の冒険である。今まで物語シリーズを愛読していた私は、相変わらずおもしろいと思いながら読了したけれど。

 

 

 予想だにしていなかったキャラクターが次々と出てくるのはシリーズ愛読者としては嬉しいものだ。まさに、暦曰くの『ゆるい企画』だからこそできることだろう。

 

 

 いわば、終わりの後の話。まさしくのおまけ。分厚い本についてくる小冊子みたいな。

 

 

 けれど、ゆるい企画ながらにも、考えさせられる内容のようにも思えたのだ。

 

 

 鏡とは、いったい、何を映している? そこにあるのが本当に自分の顔である保証はどこにあるのか?

 

 

 光の反射を映し出す道具。鏡というものの存在意義は、本当にそれだけなのだろうか。

 

 

 私は自分の顔を撫でてみる。目、鼻、口、耳。手だけでは、形を見ることなんて敵わない。

 

 

 鏡で見て、初めてその自分の顔というものを見ることができるのだ。でも、それが自分の顔だと、どうして誰もが確信できるのだろう。

 

 

 そこに映っているのが、まったく別の誰かの顔だって。あるいは、別の世界の人間の顔だって。

 

 

 私にはそれがわからないのだ。

 

 

 鏡よ、鏡よ、鏡さん。私の本当の顔を、教えてください。鏡に向かって問いかけてみる。

 

 

 鏡は何も答えてくれない。まあ、そうだろうね。魔法の鏡じゃないもの。

 

 

鏡が映しているもの

 

 鏡の中から私が見つめ返してくる。鏡の中に映る風景は、どこかぼやけているようにも見えた。

 

 

「そっちは、どう?」

 

 

 いいところだよ。私が聞くと、鏡の中の私が答えた。そっちなんかよりも、ずっとね。私はそう言って肩を竦めた。

 

 

 鏡には反転した私が映っている。それなら、鏡の中の私が語るその言葉もまた、反転しているのだろうか。

 

 

 良いは悪い。私はあなた。嘘しか話せない、鏡の中の私。けれど、その世界ではそれこそがまともで、私が逆なのだ。

 

 

 鏡は真実を映すんだって。なら、鏡の中にこそ真実があって、現実世界の私は全部嘘だってことになるのだろうか。

 

 

 私が正しいと思っている私はみんな嘘で、鏡の中の世界こそが本当の世界であるということ。

 

 

 なんて。正しいことがいつだって正解だとは言わないけれど。私はふと、鏡に向かって手を伸ばした。

 

 

 鏡面の底に指先が沈む。おや、と私は思った。鏡の中で手を伸ばしている私がにやりと笑って、おいでと私を手招きした。

 

 

 私は手招きされるがままに、鏡の中へと入っていって、そして、誰もいなくなった。

 

 

何者でもなくなった阿良々木暦の向き合う、新たな世界

 

 翌日、いつものように二人の妹、火燐と月火に叩き起こされ――なかった。妹たちから、高校生じゃないんだから一人で起きろと宣告を受けていたのだ。

 

 

 つまり今朝、一人で起きることになったのだった。昨夜は夜遅かったこともあり、そしてもう早起きの必要がないこともあり、久々の朝寝坊という奴だ。

 

 

 僕はもう、今日から『直江津高校三年生』じゃあないんだ、と。それがこれまで経験してきたどんな不可思議な怪異譚よりも、奇妙な出来事であるように思われた。

 

 

 春休みの地獄から始まり、最後には本当の地獄にまで至った一年間を体験し、それでもなお、高校を卒業できた奇跡を、僕は今、噛みしめているのだ。

 

 

 いや、そんな綺麗で、エモーショナルな感覚じゃあ、これは全然ない。

 

 

 高校生でなくなったこと自体には、思うところはほとんどない。ただ、今回の『卒業』がこれまでの『卒業』と違うのは、その先がまだ定まっていないということである。

 

 

 有体に言うと、志望大学の入試の合否が、三月十六日現在、まだ出ていないのである。

 

 

 これまで名前と同列のように、当たり前のごとく肩書を有していた僕にとっては、それが消滅するというのは、変な気持ちだった。

 

 

 ただただ肩書が剥奪され、何者でもない自分。ありのままの自分。高校生でもない。受験生でもない。大学生でも浪人生でもない。むろん、働き手でもない。無印の、ただの阿良々木暦である。

 

 

 身分保障がなくなるということが、高度に発達した現代社会において、こんなにも不安定なものだとは思ってもみなかった。

 

 

 そこまで考えて、失笑してしまった。やっぱりこれは、高校を卒業して感傷的になっているだけだろう。

 

 

 活動しようじゃないか。僕は寝間着から着替える。僕は洗面所に向かった。風呂に誰もいないことを確認してから、顔を洗う。

 

 

 僕は正面を向いた。洗面台の鏡を見た。そこには僕がいる。阿良々木暦がいる。

 

 

 僕はすっと、鏡の中の僕から視線を外した。しかし。鏡の中の僕は――僕から視線を外さなかった。

 

 

 僕は無意識に、鏡に手を伸ばした。しかし、触れてみれば、鏡とも言いがたかった。

 

 

 どぶん、と。触れた指先がその表面に食い込んだからだ。鏡が。さっきまで鏡だったはずのそれが、その瞬間、一面、紫色に染まって――

 

 

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