商売と恋の旅『狼と香辛料』支倉凍砂


 荷馬車を引く馬の蹄の音が土を蹴る。遠くに見える都市はまだまだ遠く、私は思わずため息を吐いた。

 

 

 つい先日、立ち寄った宿屋で意気投合した行商人が言っていた。旅はあくまでも手段に過ぎないのだと。

 

 

 行商人が各地を渡るのは、商品を売り歩き、利益を得るためだ。供給が少なく需要が高い商品は、土地によって大きな差額が出る。彼らはその差異によって利を得ている。

 

 

「でも、だからといって、俺たちは売るのが仕事なだけで、旅が好きなわけじゃないんだよ」

 

 

 まあ、中には旅を好む奇矯なやつもいることにはいるが、そんなのは少数派さ。彼の言うところには、どうもそういうことらしい。

 

 

 なにせ、旅は危険と隣り合わせだ。賊に出逢うこともあろうし、獣に襲われることもある。哀れな旅人の遺品だけが見つかることなんて、珍しいことではない。

 

 

 行商人なんて賊からしてみれば、食料も金も持っている、まさにいいカモなのだ。だからこそ、護衛を雇うわけだが、それにもまた費用が掛かる。

 

 

 行商人が将来、自分の店を持つことを夢見るのは、そういうわけらしい。彼らはその未来を紙に書いて、今日も各地を渡り歩くのだ。

 

 

 そんな行商人からしてみれば、目的もなく、ただ旅をする私のような人間はそれこそ奇矯な人間に見えるのだろう。

 

 

 もちろん、彼の言うように、旅は危険な側面がある。私とて何度も賊や獣に襲われそうになったことがある。

 

 

 しかし、旅のおもしろいところは、それすらも醍醐味であるということだ。命あっての物種であることはたしかだが、危険もまた、旅の一部である。

 

 

 行商人が賊に襲われたと嘆くならば、私のような旅人は賊に襲われたぞこれは愉快だと笑うのだ。

 

 

 旅はいいものだ。いろんな人との出会いがあり、広大な世界をこの身に感じることができる。

 

 

 しかし、何よりも旅人は自由だ。権力にも、家にも、何にも縛られることはない。

 

 

 かつて、私は貴族の生まれだった。地位にこだわる親の言葉は枷となり、家は私を閉じ込める牢だった。婚約者との手錠で結ばれ、貴族の戒律という看守に見張られていた。

 

 

 私はそんな家が嫌いで仕方がなかった。すでに敷かれたレール。決められた道を歩くだけの人生に何の意味があろうか。

 

 

 息の詰まるような不自由。地位も財もいらなかった。私はただ、自由でいたかったのだ。

 

 

 だから、逃げた。何もかも捨てて。すべてが揃っている人生なんていらなかった。今の、何も持たない人生の方が、生きているというたしかな実感があった。

 

 

 この空も、この大地も、すべて私のものだ。地位なんかよりも、財なんかよりも、よほど眩しく輝いている。

 

 

孤独と旅する

 

 人間は縛られる生き物だ。親に縛られ、家に縛られ、妻に縛られ、友に縛られ、社会に縛られる。

 

 

 人間がそれらから解き放たれ、本当の自由を得るためには、多くのものを犠牲にしないといけない。

 

 

 人といる限り自由がないならば、自由になるための最善の手段は孤独になることだ。

 

 

 家族との縁を切り、社会から距離を置き、友を作らず、恋人を欲さない。自分ひとりであるならば、誰からも何を言われることもない。

 

 

 人間は群れ、誰かとともにいることを好む。家庭を持つのも、社会に過ごすのも、ひとりでいることを寂しく思い、誰かとともにいたいからだ。

 

 

 私は自由を愛しているのだと自負している。それは、生まれ持った何もかもを捨ててまで私が手に入れたかったものだ。

 

 

 ただ、それでも。こうして荷馬車に座り、ひとり旅をしていると、時々、無性に人恋しさに溺れることがある。

 

 

 人間との関係は私を縛る足枷だ。それは私が自由であることを否定し、私をひとところに縛りつけようとする。

 

 

 人恋しいとは、不自由を求める心だ。旅人として自由を渇望した私だが、それでも、どこかでは不自由であることを望んでいる。

 

 

 人間はみな囚人だ。社会という檻に囚われ、人間という足枷に繋がれ、誰もが不自由であることを享受して生きている。

 

 

 何にも繋がれていない足が、私にはひどく心もとなく思えるのだ。縛られていることに、安心を覚えるようになる。

 

 

 人間は不自由を愛している。孤独とずっと付き合っていくためには、何もかも捨てるだけではどうも足りないらしい。

 

 

狼と香辛料の二人旅

 

 いつものやりとりを交わし、山奥の村を出発したのはかれこれ五時間も前田。山から下りて野に出た頃にはもう昼を回っていた。

 

 

 行商人として独り立ちして七年目、歳にして二十五になるロレンスは、御者台の上で平和な大あくびをしたのだった。

 

 

 テンの毛皮の山の隅に置いてある麦の束は、ロレンスが塩を売りに行った村で育てられているものだ。

 

 

 ロレンスが広大な麦畑に着くと、もう西の空は麦よりもきれいな黄金色だった。目の前に広がるのはこの地方では結構な収穫高を誇るパスロエの村の麦畑だ。

 

 

「狼がいるぞ狼がいるぞ!」

 

 

 彼らが口にしている狼とは実際の狼ではない。狼とは豊作の神の化身で、最後に刈り取られる麦の中にいて、それを刈り取った者の中に入り込むという言い伝えらしい。

 

 

 豊作の神は追い詰められ、人間に乗り移ってどこかに逃げようとする。それを捕らえてまた一年、この畑にいてもらうのだ。ここの土地の者たちはもう長い間それを続けている。

 

 

 ロレンスは祭りの準備を指揮していた村長に手短に修道院で聞いた話を伝えると、泊まっていけという誘いを固辞して村をあとにした。

 

 

 しばらく歩き、野宿することに決めたロレンスは毛皮の覆いを剥いだ。その時叫び出さなかったのは、あまりにもその光景が信じられなかったからかもしれない。

 

 

 なんと、先客がいたのだ。美しい顔立ちの娘は、ちょっと起こすのが忍びないほどによく眠っていた。

 

 

 ロレンスは声を上げても一向に起きようとしない娘の頭を支えている毛皮を引き抜いた。再度声を上げようとしたロレンスはそのまま固まった。娘の頭に、犬のような耳がついていたのだ。

 

 

 体を起こした娘は、ゆっくりと口を開いて空を向くと目を閉じて吠えた。

 

 

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