負けたのが、悔しいのか。父は私の背中を向けたまま、そう言った。彼がこちらを見ないのが、今は何よりありがたかった。
目から溢れた涙が頬を流れていく。こんなに泣いたのは子どもの頃以来だった。恥ずかしい、と思いつつも、涙は止まってくれない。
絶対に負けてはいけない場面だったのだ。私の手に、全てがかかっていた。しかし、何の言い訳のしようもなく、私は負けた。
あまりにもみっともない負けだった。あまりにも無様な負けだった。敗北を糧に成長するなんてことすらできないほどの、徹底的な負けだった。
九回裏。満塁。点数差は一点で相手がリード。ワンアウト。アウトにならずに外野にまで飛ばすことができれば、私たちのチームが勝てたはずだったのだ。
バッター、私。リラックスはしていたはずだった。今までにないくらい、私の気持ちは落ち着いていた。普段の練習と同じようだった。
ワンストライク。まだいける。ツーストライク。少し焦る。私がアウトになれば、チームの勝利は危うくなる。
打たねば。その想いは、焦燥となり、それは次第に重荷へと変わった。それがいけなかったのかもしれない。
三球目。バットを思いきり振るう。投手の手から放たれたボールは、バットの真ん中、から少し下にずれた位置に当たった。
セカンドゴロだった。打った瞬間、背筋が凍る。けれど、走るしかない。相手のエラーを願った。
はたして、当然のように祈りは届かなかった。セカンドが取ってセカンドベースへ。これでワンアウト。
そして、その球がファーストへと送られる。ゲッツー。試合終了のホイッスルが響き渡った。
監督も。チームメイトも。誰も私を責めなかった。私の肩を叩き、惜しかったと励ました。
けれど、それすらもが苦痛だった。その言葉の影にある感情はどんなものか、彼らの瞳からうかがい知るのが怖かった。
帰り道、私は誰とも言葉を交わさず、ずっと俯いていた。その帰路を、私は覚えていない。気がつけば、家に帰っていた。
敗北。そんな簡単な言葉で済まされるものじゃなかった。私がアウトになってもまだチャンスはあったのだ。私が、自分のチームを負けさせた。
こちらに視線すら向けない父の言葉で初めて、私は自分が泣いていることに気がついた。
敗北の与えるもの
スポーツ選手にとって、敗北は決して悪いものではない。スポーツの世界は勝ち続けることなど、どれだけ優れた選手でも不可能だ。
敗北は悔しい。だが、悔しいと思うからこそ、自分の成長へとつながる。自分を成長させようと、考えることができる。
敗北したならば、また敗北しないようにすればいいのだ。自分の技能を上げて、相手を研究し、勝てる方法を模索する。
実際に勝てるかどうかではない。結果ではないのだ。勝とうという意思、勝つための行動。それこそに意味があるのだ。
敗北は勝利のための布石のひとつだ。敗北することは勝利ではないが、勝利へと近づくもっとも近い道である。
だから、私は決して敗北を悪いものとは考えていなかった。悔しいと思い、自分を高めるためにも、敗北は必要だったからだ。
しかし、この敗北は駄目だった。今までの敗北と格が違う。私自身の敗北ではない。私自身が、チームを敗北させたのだ。
ひどい負けだった。言い訳のしようもない、最悪の敗北だった。あまりにもみじめな敗北だった。
私は、心が折れてしまったのだ。自分を高めるだとか、次の勝利のためにだとか、そんなものをみんな叩き壊すほどの、完膚なきまでの敗北だったのだ。
私はもう、立ち上がることができない。選手として、終わったようなものだ。野球をするという熱意そのものが、私の中に残っていなかった。
「泣くな。笑え」
笑え、笑えと言ったか! 笑えるはずがないだろう! 私は父に怒鳴った。八つ当たりだという自覚はあったが、止められない。
「そうだ。笑え。笑えなくても笑うんだ」
父は繰り返してそう言った。相変わらず、父はこちらを見ない。それでよかった。顔を見れば、拳を我慢できなかっただろう。
「好きなことをやりゃあいいじゃねぇか。わざわざ泣くようなことをする必要はねぇ。お前、野球が嫌いになったのか?」
そんなわけがない。私は幼い頃から野球が好きだった。今、こうして心が折れていても、野球は好きだ。だって、それは父が好きなスポーツだったから。
「好きなんだったらいちいち泣くんじゃねぇよ。負けたんなら、そいつを自慢すりゃあいいじゃねぇか。俺がチームを負けさせたんだってな」
勝ちも負けも楽しめ。泣くのがかっこいい、なんてのは大間違いだ。負けても余裕綽々で笑ってんのがかっこいいに決まってんだろ。
「好きなんだったら笑ってやれよ。泣いてまでやるんじゃねぇ。泣くんなら嬉し涙だけにしとけ。楽しくやってこその野球じゃねぇか」
そうだろ? そう言って振り返った父は、不敵な笑みを浮かべて私を見る。私は呆然としていたけれど、次第に心の奥底から挫折とは違ったものが見えてきた。
不思議と、笑いがこみ上げてくる。どうしてかはわからない。気分は最悪だったのに、私と父は、しばらくそうやって笑い続けた。
その男は家族のために釘バットを振るう
そこは、とある政令指定都市のさらに中心近く、超高級マンションの前だった。奇妙な人間が、そのマンションを見上げるように、二人、並んでいる。
ひとりは、麦わら帽子を被った、線の細い華奢な青年だった。田舎に住んでいる牧歌的な青年、というイメージだ。
もうひとりは、学生服姿の背の低い男の子だった。丸いサングラスをかけているが、それよりも気になるのは、右顔面に施された、禍々しい刺青だった。
二人は家族を狙われた報復のために、このマンションを訪れたのだった。青年は鞄を担ぎ直し、マンションの敷地内へ、侵入した。
露払いを自ら済ませて、軋識はマンション奥のエレベーターに乗り込む。キーを取り出して、階数指定ボタンの下のパネルを開け、最上階、四十五階行きのボタンを押す。
チン、と音がして、エレベーターが止まる。階数表示は、四十五。扉が開いて、ホールに出て。
「動くな」
両側から、武器を突き付けられた。
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