私は何になりたかったんだっけ。まるでそれは暗い夜道で一人っきりで突っ立っているように。
子どもの頃のことだ。先生から小さな紙を渡されて、将来の夢を書くよう言われた。
私は友達とわいわい話しながら、将来の自分に思いを馳せていた。もみじ饅頭みたいに小さな手のひらに握った鉛筆で。
けれど、私の記憶が正しければ、その紙に書いたのはちっとも本心じゃなかったはずだ。なれるとも思っていなかった。
それに、『本当の願いは人に言うと叶わなくなるよ』ってパパから言われたから。だから、私は黙っていたのだ。
あの時、私はたしかに、自分が目指すべき自分を頭の中で思い描いて、胸の中の宝箱にきっちりしまいこんだはずだ。
今の私は上司にペコペコ頭を下げて、厭味や説教にただ耐えるだけ。こんなのが本当に私のなりたかったものなのだろうか。
小さい頃の船長の私が定めた目的地を示す羅針盤。かつてはその針の指し示す方向へと向かっているはずだった。
それなのに、どうしてだろう。今は、その羅針盤の針もぐるぐる回ってばかりで、何も指し示してはくれない。
私は目的地を失くしてしまった。今はもう、ただ漫然と毎日をだらだら過ごすだけ。楽しみもなく、夢もない。生きるだけの人形だった。
あの頃、紙に書いた私の将来の夢は、たしか『服屋さん』だった。そして、今、私は服飾店で働いている。
けれど、それは本当になりたかったものではないのだ。いつの間に、私の夢は形を変えてしまっていたのだろうか。
気づいてしまったら、もういけない。すでに仕事を無断欠勤して三日目になる。携帯はうるさいから電源を切った。
迷惑をかけているだとか、責任感とか、そんなことも一切合切がどうでもよくなってしまった。
ただ、カバンの中に着替えとか、どうでもいいものとかをいっぱい詰めて、当てもなくふらふらうろついて、特に意味もなく帰ってくる。
ここ数日、そんな意味のないことを繰り返していた。けれど、どれだけ歩いても、結局、私は同じところに帰ってきてしまうのだ。
どこへ向かえばいいのかわからない。何をすればいいのかわからない。私の歩くべき道がどこにあるのか、さっぱりわからなくなっていた。
迷うままに、押入れを意味もなく掃除してみると、古びて埃を被った宝箱を見つけた。張り付いていた蜘蛛の巣を取っ払って、蛍光灯の下に引っ張り出してみる。
これだ。この中に、きっと、私があの頃に目指した私の姿が入っているはずだ。
ああ、でも。この宝箱はどうやって開けたらいいのだろう。
そういうものに、わたしはなりたい
野村美月先生の『”文学少女”と慟哭の巡礼者』が本棚に挟まっている。私はその本を手に取った。
『文学少女』シリーズの五作目だ。その前の巻はどこに置いただろうか。久しぶりに読みたくなってきた。
五作目はたしか、心葉の初恋の相手である美羽がいよいよ姿を現す話だったはずだ。おもしろいけれど、読んでいると胸が痛くなってくる。
『文学少女』シリーズはそれぞれテーマになる作品があるけれど、『慟哭の巡礼者』では宮沢賢治先生の『銀河鉄道の夜』が題材になっていた。
いつだったか、読んだことがある。会話が難しくてよくわからなかったけれど、救いがない話だなとは思っていた。
ジョバンニはカムパネルラとずっと一緒に行きたかった。それなのに、彼は突然銀河鉄道から降ろされて、ひとりで置いていかれるのだ。
宮沢賢治先生と言えば、『やまなし』のクラムボンとか、童話の印象が強かったから驚いた覚えがある。
けれど、やっぱり一番印象に残っているのは『雨ニモ負ケズ』だろうか。たぶん、宮沢賢治の作品でもよく知られている。
難解な言い回しも、ストーリーも何もない、ただ、立派な人物になりたいということを綴っているだけ。
それなのに、どうしてそんな作品が胸の中にこうも突き刺さってくるのだろうか。
なりたい、ということは、今、なれていないということ。雨にも風にも負けているからこそ、負けたくない自分になりたいのだ。
そんなもの、誰だってなりたいに決まっている。けれど、誰もそんなことを口に出して言おうとしない。
本当の願いを口に出すと叶わなくなるから。恥ずかしいから。言っても無駄だから。何かそんな理由で、誰もが自分の本当の願いを言わなくなってしまった。
『雨ニモ負ケズ』が愛されているのは、だからじゃないだろうか。
誰しもこうなりたいと願っているのだ。自分のなりたい自分という姿を持っている。けれど、それを堂々と口に出したのは、宮沢賢治先生だけなのだ。
いつから夢を恥じずに言えなくなったのだろう。夢なんて、恥じるものじゃないのに。
誇ればいいじゃないか。箱に入れて隠す必要なんてないのだ。胸を張って、雨にも風にも立ち向かえばいいじゃないか。
私は夢をしまいこんだ宝箱の蓋を開けた。蓋は特に抵抗もなく、あっさりと開いた。中に入っていた、私のなりたかったもの。
夢を堂々と言える、そういうものに、私はなりたい。
初恋の少女と現在の友人、信じるのは
ぼくの幸いは、美羽だった。あの頃、美羽が隣にいるだけで胸が弾み、美羽が朗らかな澄んだ声で物語を紡ぐとき、ぼくらを取り巻くあらゆるものが虹色に煌めいた。
「あたし、作家になるんだ。あたしの本をたくさんの人に読んでもらうの。そうしてその人たちが、幸せな気持ちになったらいいなぁ」
あたたかな木漏れ日の下で、ポニーテールをさらさら揺らしながら、美羽は明るい眼をして未来の夢を語った。
きれいな声でささやいて、首を小鳥のように傾け、いたずらっぽい目をしてじっとぼくを見つめたのだ。
「コノハの夢はなに? 大きくなったら、コノハはどんな人になりたい?」
真剣に考えて、ちゃんと答えなきゃと必死になって、頬を熱くして、やっとのことで、「ぼくは……木になりたい」と答えたら、大笑いされた。
あれから三年が過ぎた。ぼくの聖地は喪われ、美羽は姿を隠した。ぼくは暗いひきこもり生活のあと、平凡な高校生になった。
高二も終わりに近づいた今、ぼくはまだ木にはなれず、幸いの意味も分からないまま、やわらかな金色に染まる文芸部で、”文学少女”の、おやつの作文を書いている。
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