悲鳴と怒声。襖の隙間から覗いた先には、白い肌に赤い蚯蚓腫れが尾を引いておりました。その時の鞭を振るう男の顔は、さながら鬼のようにも見えたのでございます。
遊郭において、逃げ出すのは禁忌とされておりました。逃げ出そうとした遊女は、厳しく罰せられ、折檻を受けるとのことでした。
私は、その光景から目が離せませんでした。どうしてだか、とても恐ろしかったのでございます。
ふと、こちらを向いた男と、目が合いました。ギラギラと輝く黄色い瞳。気が付けば、私はその場から逃げ出していました。
私の世話を見てくれている姐に抱き着くと、彼女は驚いた顔をしつつも、頭を撫でてくれました。暴れていた胸の動悸が、ゆっくりと収まっていくかのようでした。
けれど、あの頃に見たその光景は、深く私の心に刻み込まれたのでございます。
それ以来、私はよく考えるようになりました。いったいどうして、私たちはここにいるのだろうか、と。
一見豪奢な建物に見える木の格子は、さながら檻のようでありました。中でしなを作って手招きする遊女を、外から眺めるのは客となる男たちでございます。
いったいなぜ、女が檻の中にいて、男は外にいるのか。それが私には不思議でなりませんでした。どうして私たちばかりが、閉じ込められなければならないのか。
その頃、遊郭では一冊の書物が流行っておりました。ひとりのお客様が持ってきたという、少々風変わりな恋物語でございます。
その作品を、『隅でいいです。構わないでくださいよ』という表題でした。大層変わった表題だと、最初に聞いた時は思ったものでございます。
その物語の舞台は遊郭でした。しかし、やや型破りな内容であるため、お客様には隠されたまま、遊女たちの間で密やかに流行っていたのでございます。
それは、男女の立場が逆さまになっているのです。つまり、男が遊郭の檻の中へと囚われ、女は時として彼らを買って遊ぶ、というもの。
こんなものが殿方の目に入れば、いったいどんなお叱りを受けるか。ともあれ、女たちにとって、特に自由を求める女たちにとって、その本は琴線に触れるものがあったようです。
語り手が少女というのも、大きかったのでしょう。彼女は妓楼を取り仕切る旦那に拾われ、男として育てられることになるのです。
その物語は、私の胸にずっと秘められていた疑問を、無理やり掻き出したのです。あの光景を見た頃からずっと抱いていた想いを。
男とは何か、はたまた女とは何か。なにゆえ男が上に立ち、女は自由になれぬのか。
幼い頃に聞いた、あの悲鳴。自由を求める女の悲痛な叫びが、また、聞こえてきたような気がしました。
いや、もしかすると、彼女たちは、あるいは私たちはずっと、その悲鳴を上げ続けていたのかもしれません。微笑みを浮かべる白化粧の顔の下で、ずっと。
男女が逆転した世界で
なぜか目覚めて気づいたら、川原に寝そべり時代劇のように着物を着た人たちが周りにいてびっくりした。
え、なに、お祭り、とは思ったが、髷の男の人が時折いたからなんとなく違う気はする。そしてみんな私よりもうんと背が高い。
自分の手のひら、足、お腹を見れば幼児そのもので着物もボロいのを着ているみたい。こんなわけのわからない状況で何もできないチビッ子になっていようとは。
しかし、私はふと思う。そういえば自分は誰だろう、と。
日本ということも分かるし、車があったことも、でかいビルがあったことも覚えている。でも、自分は誰でどういう人間だったかはわからない。
この世界が自分がいた世界でないことは確かだった。そうでなければ、この世界で私は軽い記憶喪失になっている、ちょっと思考の痛い子になるだろう。
そんな感じで半ばふらふらとしていると、結構歩いていたのか、目の前にはきらきらしい世界がいつの間にか広がっていた。
女の人たちがごった返している異様な町で、道の横にある建物には格子がついており、とてもきれいな男の人たちが美しい着物を着て中にいた。
あれ? おかしいな、私の知っているああいうのは女の人がやっていた気がするのに。やはりまだまだ違和感が拭えない。
歩き疲れて足が痛くなった私は、建物の裏辺りでしゃがんで休むことにした。すると急に心寂しくなり、泣きそうになる。
「お前さん、こんなところでどうした?」
泣き声が漏れそうになった時、突然声をかけられた。びっくりして声がした方へと顔を向けると、白髪を生やした厳格そうな見た目のおじさんが、眉間に皴を寄せてこちらを見ている。
「迷子か? 親はいんのか?」
びっくりしたのと、おじさんが怖いのとで声が出ない私は首を横に振るしかできなかった。
「じゃあ、帰るところはどうだ?」
「……ない」
三回目の問いでようやく声が出た。するとおじさんはぶつぶつと聞こえないひとりごとを念仏のように唱え始めた。
何を言っているのかわからない私は、きょとんとおじさんを見上げる。そんな私を厳つい目でじーっと見つめると、にっと笑顔を見せた。
「なぁ、お前さん。行くところがないなら、俺のところで働くか?」
そんな誘い文句に、行き場も、この世界のことも何もかもがわからない私には、差し伸ばしてくれた手をとること以外の選択肢なんてものを見つけられるはずもなかった。
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