チョークで黒板を叩く。白い粉がはらはらと舞った。淡々と教科書の内容を読み上げる。背後から聞こえる小さな笑い声を、聞こえないふりをしながら。
私が担任しているクラス。教員になってから、担任のクラスを持ったのは初めてのことで、私は当初からはりきっていた。
しかし、今やそんな最初の決意はどこに行ったのか、目を伏せて、聞こえないふりをしながら、淡々と授業を終えては逃げるように職員室に帰るのが今の私の日常である。
きっかけは、私のクラスにいる二人の生徒だった。
ひとりは、いかにもガキ大将とでもいうような、身体が大きい男の子。クラスの男子の多くをいつも引き連れ、騒いでいる。
そして、そんな彼らの輪の中心に囲まれているのがもうひとりだ。細くて、色白で、大人しい少年だ。
といっても仲が良いわけじゃない。ああ、気づいている。気付いているとも。笑っているのは囲んでいる側ばかりだ。
殴られたり、蹴られたり。彼の服の下にはいったいどれほどの打撲痕があるのだろうか。
もちろん、教師をするからには、いつかは、いわゆる「いじめ」という問題にも直面するだろうと思っていた。
その時は、毅然とした態度で対応しようと考えていたのだ。若い私は義憤に燃えていた。あの頃の私は、まだ青かったのだ。
今まさに、現実に私のクラスで「いじめ」が起こっている。そんな時に、私は注意もしないし、止めもしない。ただ、見ないふりをするだけだ。いったいどうしてこうなってしまったのか。
いじめのない学校。我が校が掲げている目標。私のクラスでいじめがあることを認めてしまえば、私はどうなってしまうのだろう。
気づかなかったふりが一番賢いのだ。そう、だからあれは、ただ遊んでいるだけ。そう、そうだ。私は悪くない。そう自分に言い聞かせる。
「じゃあ、今日はみんな、おすすめの本を紹介していきましょう。最初は、じゃあ、お願いしますね」
私はにこやかに、いじめられている彼を指名する。そうだ、私は何も気づいていない。気付いていないのだ。
「……はい。僕が紹介したいのは、この本です」
そういって彼が出した本を見て、私は心臓を掴まれたような気がした。自分の鼓動が妙に大きく聞こえる。
「『ヒトはいじめをやめられない』という本です……。人間は、いじめをやめられません。その理由を、わかりやすく解説してくれています……」
クラス中が静まり返っていた。誰も言葉を発さない中で、彼のぼそぼそと話す声だけが、教室の空気を揺らせている。
これは、彼からのメッセージだ。助けを求めるための。そして同時に、私への糾弾だった。
お前はずっと、知らないふりをしていたな。若い頃の私が、胸の中の暗闇から私を睨む。
糾弾すべきか、気づかないふりをすべきか。彼の伸ばしてきた手を、私は柄看取るべきか。いや、そんなこと、答えなんて、わかりきっていることじゃないか。
いじめがなくならない理由
「いじめを根絶しよう」といった理想はこれまで長く語られてきました。しかしながら、毎月のようにいじめに苦しみ、自ら命を絶つ子どもたちの哀しいニュースが報道されています。
もしかしたら「いじめを根絶しよう」という目標そのものが、問題への道を複雑にさせているのではないでしょうか。
「いじめは『あってはならない』ものだ」と考えることが、その本質から目を逸らす原因になってしまっているのではないでしょうか。
「いじめを許さない学校」をスローガンに掲げつつ、学校や教育委員会では、被害者の気持ちに寄り添うどころか、なかなかいじめを認知できない。
またいじめは、子どもの世界だけでなく、大人の世界にもあります。そして、時代や国を問わずどこにでも存在します。
昔から『正義』の名の下に、過激な制裁・排除行動が行われてきました。いじめは学校だけでなく、集団の中では必ず起こり得る現象です。
近年、こうした人間集団における複雑かつ不可解な行動を、科学の視点で解き明かそうとする研究が世界中で進められています。
その中でわかってきたことは、実は社会的排除は、人間という生物種が、生存率を高めるために、進化の過程で身につけた「機能」なのではないかということです。
つまり、人間社会において、どんな集団においても、排除行動や制裁行動が亡くならないのは、そこに何かしらの必要性や快感があるから、ということです。
本気でいじめを防止しようと考えるのであれば、「いじめが止まないのは、いじめが楽しいものだからなのではないか」という可能性を、あえて吟味してみる必要があるのではないでしょうか。
本書は、いじめが起こるメカニズムについて脳科学的観点から解説します。さらに、人間の生物学的な本質を見つめながら、「子どものいじめ」「大人のいじめ」それぞれについての対応策を考えます。
脳の性質やいじめという行動について科学的理解が深まることで、より有効なアプローチを切り出すことができ、ひとりでも多くの人に救いや展望が生まれることを願っています。
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