「ほらほら、楽しいなあ。なあ、お前も楽しいだろ? 楽しいって言えよ!」
ああ、嫌なものを見た。私は思わず目を細めた。笑い声。暴行の音。耳にこびりつくような、ぞっとする音。
校舎の、人目につかない廊下の隅で、何人かの男子たちが集まっていた。みんな、私と同じクラスの子たちだ。
ひときわ目立つのは、長身で、ガタイのいい男子だった。げらげらと笑っている。私とは幼馴染で、かつては気の良い奴だったのだけれど、最近はなんだかおかしい。
彼の周りに円を作るように立っている子たちもニヤニヤ笑っている。その笑みは自分たちの足もとにいる男子を見ていた。
彼らの拳が、足が、彼の腹に降り注いでいる。彼らは顔に手は出さない。大人に見つかってしまっては困るからだ。
クラスでいじめが起こっているのは、誰もが知っている。いじめているのは幼馴染の彼。きっかけは、何だったのだろう。もはや覚えてもいない。
いじめられている彼が、暴力を浴びながらも必死に目を開ける。視線が合った。縋るような視線が、私の胸を貫く。
私は一瞬だけ目を閉じると、彼の視線から目を反らして、その場から立ち去った。気にしないように、けれど、心なしか早足で。
相手は屈強な男子たち。私ひとりの細腕で何ができるだろう。余計に手を出して私までいじめの標的になったら最悪だ。
それに、どうせ私だけじゃないのだ。クラスの連中はどいつもこいつも見て見ぬふりをしている。いじめられている彼の声のない悲鳴と助けを求める視線を、まるで存在していないかのように。
みんな同じだ。私だけじゃない。胸の奥で、そんな言い訳ばかりを呟く。けれど、気分は晴れなかった。
人の視線を避けるように図書館に逃げ込む。図書委員の子がちらりと私を見た。手持無沙汰を誤魔化すように、本を探しているふりをする。
ふと、一冊の本が目に入った。『いじめを克服する』。思わず手に取った。その本を持って椅子に腰かける。
「これはいじめに対するハウツー本ではない」
そう書かれていた。中には、どんないじめがあったかという例や、いじめがどういうふうに解決したかという例が載せられている。
だいじょうぶ。うちはこんなにひどくないし。思わずそんなことを呟く。心の中に白々しく響いて、虚しくなった。
この本はどちらかというと、教師に向けた本らしかった。いじめ問題には、どのようなパターンがあるかが記されている。
私は、クラスの担任を思い浮かべた。私は知っているのだ。彼が、クラスでいじめがあることを把握していることを。
けれど、先生は何の対処もしてくれない。私たちと同じように気付かないふりをしていた。
いや、それどころか、いじめられている彼に冷たい視線を向けているような気さえする。それに気付いた時、私は背筋が凍るかと思った。
教師は聖人じゃない。ただの、ひとりの人間だ。彼はいじめを解決する気はないのだ。
いつ、いじめの矛先が気まぐれに私たちに向けられるかわからない。クラスの誰もが、それを怯えている。だから、誰も何もしないのだ。
教室に戻りたくなかった。あの場所は地獄だった。恐怖し、目を反らし、ただ黙って、存在感を消すことに苦心する。
まるで感染症のようだ。生贄という病が、今いじめられている彼を蝕んでいる。
ああ、お願い。治して。誰でもいい。誰でもいいから、私たちのクラスを苦しめている、この感染症を治してよ。
あんな教師じゃなければ。そんなことを思わずにはいられなかった。でも、思っているだけじゃあ、何も変わらない。
いじめをなくすために
非行や子どもの問題行動の臨床指導に足を踏み込んで、もう二十四年になります。その間私が出会った多くの非行少年たちは四百名は超えると思われます。
夜中に拙宅に飛び込んでくる青ざめた母親や父親、そして全国から入るおびただしいいじめや非行の相談。これは他人事ではすまされないものなのです。
いじめや非行の現象は非常に複雑ですから、一回の電話や面接で処理できることなど皆無です。結局のところ私にできるのは、両親や教師たちと最後まで苦悩し合うことしかないと言えそうです。
さてそこで見るものは何かといえば、人間不信に慄く若者たちの荒涼とした心の光景です。そうした彼らと時を過ごし、信頼をつくり上げるには、膨大な時間をかけることが必要です。
本書は、私がこうして多くの子どもたち、教師たち、父母たちとともに悩む中で、発見したことを書き綴ったものです。
たくさんの教師たちの実践記録に教えられることが多く、私の臨床指導の記録と重ね合わせて検討することができたのは、大きな収穫でした。
本書は、いじめに対するハウツーのように見られるかもしれませんが、非行と同じで、いじめはそれだけで個別的に解決されるものではありません。
いじめの背景はあまりにも奥深く広いので、日本の社会や教育や文化の根本の変革なしにおさまるものではないと思われます。
したがって本書は、そうした限界を充分承知したうえで、当面の原則的対応を考えたものです。読者の忌憚のないご批判を仰ぐものです。
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