世間学から考える『加害者家族バッシング』佐藤直樹


テレビで報道された凶悪な事件。ツイッターでは、犯人の親に対して痛烈な批判の声が呟かれ続けている。俺はそれを、苦々しい思いで見つめていた。俺も少し前まで、あちら側にいたのだ。今では、その過去を恥ずかしく思っている。

 

かつて、俺はそれを正義だと信じ切っていた。子どもや女性など弱い存在を傷つけ、社会の平和を乱す犯罪者。彼らはもちろん、許すことのできない「悪」だ。

 

だが、そもそも彼らはどうして生まれたか。もちろん、そこには彼らの親の存在がある。親が育て方を間違えたからこそ、彼らは犯罪者となり、多くの人を傷つけるに至った。

 

ならば、本人だけじゃなく、親もまた「悪」だ。俺はそう考えていた。そして、そう考えているのは俺だけじゃなかった。ツイッター上では、俺と同じように声を上げる人たちが大勢いたのだ。俺もその中のひとりに加わった。

 

しかし、犯罪者の家族が自ら首をくくって亡くなったと報じられたとき、ツイッターで「自業自得だ」と歓声を上げる人たちを見て、どこか違和感を感じた。その違和感は、その後もずっと俺の胸を苛み続けていた。

 

ある時、俺は図書館で見つけた一冊の本を読んでみることにした。佐藤直樹先生の『加害者家族バッシング』という本である。その本を読んで、俺は自分の感じていた違和感の正体、そして俺が何をしてしまったかを知った。

 

犯罪が起きた時、日本ではしばしば、その家族にも「責任をとれ」という声が上がり責められる。よく見られる光景だ。しかし、それは日本だけで、海外ではまったくそんなことは起こらないのだという。

 

むしろ、海外では犯罪者の親に励ましの言葉すら届くのだと知って、俺は大いに驚いた。どうしてこんなにも違うのか。その本の著者は、日本の「世間」というものがその根本にあるのだと答えている。

 

「世間様に顔向けできない」などと言われるように、日本において「世間」は非常に強い力を持っている。しかし、海外ではその「世間」というものは存在しないのだという。

 

そもそも「世間」は、日本に昔からある考え方だ。個人が重視される世の中になって、本来ならば「世間」は消え去るはずだった。にもかかわらず、それは俺たちの根底に強く残っている。

 

それどころか、「世間」はよりいっそう強くなってきたという。そのせいで、日本は生きづらく、息苦しい、閉塞感あふれる国になってしまった。

 

俺は世間の一部だ。読めば読むほど、そう思った。だが、それは決していいことではなかった。俺は世間のひとりとして、ひとつの家族を死に追い込むという殺人を犯したのだから。

 

「親は責任をとれ」という声を上げるのは、その多くが加害者とも被害者とも関係がない、まったく無関係な人たちだ、と。その通りだ。俺は加害者も被害者も知らないし、もっと言えば事件の詳細すらも曖昧だった。

 

俺は、最低な犯罪を犯した犯罪者を生み出した親も責任を取るべきだという正義に駆られた。本当に、そうだろうか。俺の根底にあったのは、本当に正義感だったのか。

 

犯罪者の親だ。だから、彼らには何を言って、何をしても許される。だってそれは「断罪」という正義の行いなのだから。みんなやっていることなのだから。俺の心のどこかに、そんな思いがあったのではなかったか。

 

彼らが苦しめば苦しむほど、俺は楽しくなっていた。今、俺は正しいことをしている。お前たちは間違っているんだ。俺の名前は誰にも知られない。俺は世間のひとり、彼らを責める顔も名もない正義の味方のひとりだ。

 

正義という建前のもとに、人を責め立て、殺した。それは、忌むべき事件を起こした犯罪者と何が違う? いや、むしろ、その犯罪者よりもよほど、俺の方が「悪」じゃないか。

 

本を読み終わったとき、いっそ清々しい思いだった。虚飾で飾り切った自分の本当の姿を、その醜悪さを、晒されたような心地よさがあった。

 

俺はもう、彼らを責めない。被害者の家族ならばともかく、俺に彼らを責める資格なんて、最初からなかったのだ。名も顔も隠して人を責め立てる彼らがどれほど卑怯で恥ずかしい存在かということ、その事実を知ってしまったから。

 

 

「世間」とは何か

 

この国では、重大犯罪がおかされた場合、犯人の家族に対して、「親は責任をとれ」という「世間」からの非難がおきるのがふつうだ。

 

犯罪加害者家族になったとたんに、メディアスクラムやネットリンチなどのかたちで、「世間」からひどいバッシングを受ける。その結果、家族は転居や転校や転職を強いられ、極端な場合は自殺にまで追い込まれる。

 

では、加害者家族へのバッシングは、家族が「犯した罪に対する刑の一部」であり、「そのことを示すためにも差別は必要」なのだろうか?

 

ところが不思議なことに、海外とくに西欧諸国では、こうしたひどいバッシングはほとんどみられない。つまり、バッシングはこの国に特有な現象であると考えざるをえないのだ。いったい、なぜだろうか?

 

ニッポンには、海外とくに西欧には存在しない「世間」があることで、ヨーロッパで生まれた〈近代家族〉が未成熟なままになっているからである。〈近代家族〉でないために、家族は「世間」からの非難に抵抗できない。

 

さらには「世間」には、他の国では考えられないような、つよい同調圧力がある。この異様な圧力が、加害者家族を追い詰めるのだ。つまり、すべてはこの国の「世間」に由来するものである。本書でいいたいことは、これに尽きる。

 

私は、加害者家族へのバッシングのあり方は、いまニッポンにまん延する閉塞感・息苦しさ・生きづらさの集約的表現であると思っている。

 

だから、バッシングの問題を根本的に解明するためには、この息苦しさの根源となっている「世間」を、きちんと解析しなければならない。

 

 

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