スープの底に満ちる思い出と謎『スープの国のお姫様』樋口直哉


私はスープが嫌いだ。味噌汁のような和食だろうが、ポタージュのような洋食だろうが、関係ない。スープを飲むと、胸がざわつく。だから嫌いなのだ。

 

そんな私が『スープの国のお姫様』を手に取ったのは、ただの気まぐれとしか言えない。そもそも、スープが嫌いであっても、スープがテーマの小説が嫌いかと言われれば、そういうわけでもないのだから。

 

物語は、こうだ。元料理人の「僕」は、別れた恋人からの紹介で、高齢のマダムが暮らすとある大きな屋敷に料理人として勤めることになった。

 

仕事の内容は、なんとも奇妙である。毎晩一杯のスープをつくること。これだけだ。なんと、そのマダムはスープしか口にしないのだという。それでいて報酬は破格である。

 

ある時、「僕」は屋敷でひとりの少女と出会う。彼女は千和。マダムの孫娘なのだという。書斎にある膨大な本を読んでいる彼女は、幅広い料理の知識を持っていた。

 

屋敷を訪ねてくるお客たち。彼らから出される奇妙なリクエスト。千和と力を合わせて、彼らの求める思い出のスープの正体を探す。

 

読み始めた最初は、そう期待はしていなかった。所詮は、ただのスープのグルメ小説だと思っていたのだ。スープ嫌いが読んだところで、どうと思うわけもない。

 

だが、期待は良い意味で裏切られた。気が付けば、物語の世界に引き込まれ、夢中で読み進めていた。自分自身が何よりもそのことに驚いた。

 

「料理」と一口に言うが、それは味や見た目だけのものではない。その営みは、私たちが生まれる遥か昔から行われ、時代とともにより洗練され、進化していった。

 

料理には歴史がある。現在、私たちが食べている料理は、名もなきシェフたちや、家庭を育む母親たちの努力と発想の結晶なのだ。もちろん、スープもまた、例外ではない。

 

高級なフレンチやイタリアンで出されるような、横文字の、どんなものかもわからないスープ。この小説の中に出てくるのは、そんなものではなく、その味に対する大仰な賛美というわけでもなかった。

 

スープが生み出され、そして世に広まるまでの、スープそのものの歴史。そして、それを食べた人たちの思い出の中にだけ残されている味。

 

どことなく、仄かなスープの香りがする。いや、それは幻に過ぎない。唾液が口の中で溢れる。お腹が鳴る。驚くことに、私はスープが食べたいと、心の底から望んでいた。

 

料理とは、ただおいしいだけのものではない。そこには歴史がある。そこには思い出がある。多くの人の努力が、料理をさらに彩り、美しく仕上げる。

 

この小説にはまさに、スープを通して料理そのものの真髄が描かれていた。化学調味料に味付けされて、何も考えずにただ食べるだけの現代人が忘れてしまった、料理本来の姿が。

 

ふと、思い出した。スープを嫌いになるよりもさらに前、私がまだ幼い子どもであった頃、母が一杯のスープを出してくれた。

 

香りに誘われて、幼い小さな胃袋がきゅうと鳴る。今にして思えば小さな皿だが、その当時は並々と注がれたスープはまるで海か湖のような広大なものに見えていた。

 

右手にお気に入りのキャラクターが描かれたスプーンをぐっと握り、スープの湖面に突っ込む。零れたスープの飛沫すらも、気にならないくらい、私は夢中だった。

 

顔を寄せて、皿の縁に唇をつけて、無作法にスープをずずっと吸い上げる。口の中に流れ込んできたスープは、ほっぺたが落ちそうなくらいおいしかった。あの頃の私は、まだスープが大好きだった。

 

ああ、それなのに。今はもう、そのスープの香りも、味も、なにも思い出せない。薄ぼんやりと霧がかかったような記憶だった。

 

あの、大好きだったスープ。母がつくってくれた最高の、世界一おいしいスープ。あれはいったい、どんなものだったのだろう。

 

……今日の夕食は、スープでもつくってみようか。鼻孔に香る風味が、私を突き動かしていた。それはそこにあってどこにもない、思い出の中だけの香りだ。

 

 

思い出のスープ

 

キッチンの片隅でスープの鍋が湯気を立てているのは時代遅れの光景だ。

 

実際、レストランでは長いこと、スープはメニューから消されていた。庶民的なスープでは手間に相応なお金がとれないし、それとパンでお腹を満たされてしまっては、ほかの料理が食べられなくなるという理由からだ。

 

ともかく今日、スープはメニューの目立たないところに置かれている。本日のスープなんていう曖昧な書かれ方をされていることもある。本日のスープという名前なのは、その日の余った材料でつくられるからだ。

 

あるいはスープを時間稼ぎの道具としかみていない料理人もいる。事前につくっておけば温めるだけで提供できるので、次の料理を出すまでの繋ぎにちょうどいい、というわけである。

 

そんなわけでスープは地位の低い料理だ。

 

にもかかわらず――と言うべきかどうかわからないが――僕はメニューにスープの名前を見つけると注文せずにはいられなくなる。

 

そして違う、と思う。あの時の味じゃない――と。

 

 

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