『残り全部バケーション』その言葉を見た時に思わず手に取ったのは、仕事に疲れていたからか、それとも、それが大ファンの伊坂幸太郎先生の作品だったからか、今はもうわからないが、その本を手に取った、そのことだけはたしかだ。
当時、俺が勤めていた会社は今流行のバリバリのブラック企業で、サービス残業当たり前、週休一日フルタイムという代物だった。やっぱり、親のコネで会社なんて選ぶものじゃない。
しかも、職場環境はサイコーのひとことだ。アルバイトの婆さんの怒声が響き渡り、たまに仲の悪い上司ふたりの殴り合いが勃発する。
そんな環境から逃げたい。そんなことをいつも思っていたからだろうか。だからこそ、条件反射のようにその言葉に惹かれたのだ。
残り全部バケーション。ああ、そんなふうになればどれだけいいか。そう思いながら、「まあ、せっかくだから読んでみよう」と決めて、その本を開いた。
「実はお父さん、浮気をしていました」というセリフから始まり、物語は食卓を囲む家族団欒のシーンから始まる。彼らは近々家族ではなくなるらしいけど。
とはいえ、この作品の軸は彼ら家族ではなく、岡田と溝口という、あくどい商売をしてお金を稼いでいる裏家業のコンビである。
あくどい商売をしているくせに正義感があるらしい岡田と、言葉尻は強いのにどこかズレている溝口。二人の軽快な会話が実にコミカルでおもしろい。
そのくせに、ジェットコースターみたいに突き進んでいくストーリーはさすが伊坂先生! といった感じ。伏線までしっかりと回収してくれる。この爽快感がタマラナイネ。
『残り全部バケーション』という言葉は、裏家業から足を洗うことを決意した岡田が言ったセリフだ。「明日から、もう俺の人生、残り全部、バケーションみたいなものだし」という。
彼はその後、仕事をやめたことで、溝口よりもさらに上にいる、悪の親玉みたいな奴から命を狙われるようになる。それでも、岡田の態度に悲壮感は感じられない。
俺は彼のそんな姿勢に、憧れた。岡田は命を狙われるかもしれないと知っていながらも仕事を辞めた。それが、俺はどうだ。たいして威厳もない上司が怖くて、仕事を辞められないでいる。
残り全部バケーション。その言葉が、出勤中の俺の頭の中をふらふらとしていた。逃げたいなあ。逃げられたらなあ。逃げられないか。そうだ、逃げよう。
そう思いついた途端、俺は踵を返して、会社とは正反対の方に歩き出した。バスに乗る。特にどこに向かうかなんて考えは何もなかった。これからのことなんて、何も頭になかった。
重い枷を外したような解放感があった。スマホが鳴る。会社からだった。俺は電源を消して、スマホをバスの窓から放り捨てた。いいね、残り全部バケーションだ。最高の気分だった。
岡田と溝口
「実はお父さん、浮気をしていました」と食卓で、わたしと向かい合っている父が言った。「相手は、会社の事務職の子で、二十九歳の独身です」
「それさあ」わたしはげんなりしつつ、頬を掻く。「そんな浮気の話、秘密でもなんでもないじゃん。誰のせいで引っ越すことになったと思ってるわけ」
引っ越しの準備が終わり、業者を待つのに時間を持て余したため、「どうせ今日で早坂家は解散なのだから、その前にひとりずつ、秘密の暴露をしあおうじゃない」と言い出したのは母だった。
「秘密なんて、その浮気のことくらいしかないんだよ」と父は言う。「何か一個、思い出してよ」母は薄っすらと笑みを湛え、こちらを向いた。「家族には秘密だったこと、何かあるでしょ」
「お」と突然、父が不意打ちを食らったかのような声を発した。何事かと思えば、食卓の上で震える電話を凝視している。「メールだ」
「浮気相手の人から?」わたしはわかりやすい嫌味を投げる。「何だこれ。アドレスがないぞ、ああ、電話番号でやりとりするメールかあ」などとぶつぶつ言う。
「何のメール?」と訊ねてあげる母は優しい、とわたしは思う。どれ、とわたしは身を乗り出し、向かい側の父からPHSをひったくった。液晶画面に、メールの文面があった。
『適番でメールしてみました。友達になろうよ。ドライブとか食事とか』
よくあるやつじゃん、とわたしは鼻で笑った。「スパムメールってたぶん、サイトに誘導しようとするんだろうけど、これは違うよね。本当にナンパ目的なのかもしれないけど、でも、怪しいのは間違いないよ。無視しておけば問題ないって」
父はじっと文面を眺めている。「ちょっと聞いてる? 無視だよ、無視」ああ、と生返事がある。
「あのさ」やがて、父がbぼそっと言った。「お父さん、友だち欲しいんだよな」「はあ?」「これ、返事していいかなあ」ぼんやりと独り言のように洩らす父はPHSを見つめたままだ。
「いいんじゃない?」母がそこで笑った。「何言ってんの、お母さん」
「じゃあさ、返信して、訊いてみてよ。ドライブの車って何人乗りか、訊いてみて」
「何それ」わたしは、母の発言の真意がわからず、眉をひそめる。「おいおい」と父が困惑しつつ、言う。「みんなで行く気かよ!」
「無理だって、そんなの」とわたしは吐き捨て、父は父で、「俺の友達なのに!」と大声で嘆いた。
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