神様を閉じ込めちゃえばいいんだ『アヒルと鴨のコインロッカー』伊坂幸太郎


ふと、窓から一匹のチョウチョが、家の中に入ってくる。私はそれを、じっと見ていた。チョウチョは、私の目の前の、本のページに留まった。お父さん。思わず、呟く。

 

あとになって、どうしてチョウチョを、お父さんと呼んでしまったのだろうと考えた。本当のお父さんはもう何年か前に亡くなっている。

 

ただ、チョウチョが目の前に留まった瞬間、私の中で、何かがしっくりきたのだ。そして、思わず口をついて言葉が出てしまった。

 

最近、ネットではよく生まれ変わりだとか転生だとか目にするけれど、正直その考え方はあまり好きじゃなかった。というか、あまりにもご都合主義だろうと思っている。

 

けれど、そういうのは絶対に信じない、というわけではない。ブータンという国では、生まれ変わりが信じられているから、どんな小さな生き物の命も大切にするらしい。その考え方はとても素敵だなと思った。

 

私がどうしてブータンの文化を知っているのかというと、伊坂幸太郎先生の『アヒルと鴨のコインロッカー』という作品に、そう書かれていたからだ。

 

伏線回収がしっかりとされていたり、意外などんでん返しがあったりと、伊坂先生らしい作風で、とてもおもしろい作品ではあったけれど、どこか私の中では、後味が悪く終わってしまった印象がある。

 

物語は二年前と現代を交互に繰り返しながら、過去にあった出来事と、現代が次第につながっていくという構成になっている。

 

二年前の話を読んでいる時、私はずっと、何かに追われているような不安な気持ちが収まらなかった。ずっと胸の奥がざわついていたような気がする。

 

箸休め的に入ってくる現代に戻ると、ようやくほっと息がつける。そんなふうにしながら読み進めていった。読みながら、この不安を焦らされている感じは悪くないなと思っていた。

 

結末は、何も矛盾がない。とてもきれいな終わり方だと思う。けれど、私は中途で感じていた不安が結局解消されずに終わってしまって、どこかもやっとした気持ちになった。

 

というのもやっぱり、途中の話でこれでもかというくらい、不安を煽られたことが原因だったと思う。いや、作品じゃなくて、私が勝手に感じていただけなんだけれど。

 

ただ、作品の中に出てくる「悪いことをしても神様を閉じ込めちゃえばいいんだ」という言葉は、とても好きだった。今でも頭の中に残っている。

 

思い出したのは、お父さんがまだ生きていた頃の、遠い記憶。蜘蛛の巣にかかっていたチョウチョがもがいているのを、ただじっと眺めていたことがある。

 

私はその時、苦しみもがくチョウチョの姿を見て、たしかに楽しんでいた。私にはそういう、人には見せられない、醜い部分が今もある。

 

その話をお父さんにした時、とても悲しそうな表情をしたことを、覚えている。叱られもしなかったし、何も言われなかったけれど、不思議と、その表情だけが忘れられない。

 

もしかしたら。お父さんがチョウチョとして私の前に現れたのは、あの話を覚えていたからかもしれないな。チョウチョはしばらく翅を休めると、不意にまた飛び立って、窓から外に出て行った。私はその姿を、ぼうっと見つめてゐる。

 

 

悲劇は裏口から起こる

 

腹を空かせて果物屋を襲う芸術家なら、まだ恰好がつくかもしれないけれど、僕はモデルガンを握って、書店を見張っていた。

 

夜のせいか、頭が混乱しているせいか、罪の意識はなかった。強いて言えば、親への後ろめたさはある。そんなことをさせるために大学へやったのではない、と彼らが非難してくれば謝るしかない。

 

細い県道沿いにある、小さな書店だ。午後十時過ぎ、国道が近くを走っているはずだが、周囲は薄暗かった。車の音もしない。

 

僕たちが到着した時は、ちょうど閉店時間の直前だったので、駐車場に停まっていた車が次々と出て行くところだった。古そうな白いセダンが一台だけ残っている。

 

僕たちは閉店間際にわざわざやってきた。客ではないからだ。裏口ドアの前に立つ。木目模様の扉で、ノブは銀色だ。ガラスが嵌め込まれているのは、僕の顔の位置だった。

 

そうだ、モデルガンを持ち上げなくてはいけない。窓ガラスの位置に、握っているモデルガンを近づけた。

 

地面が揺れている、地震だな、と思ったが、何ということはない、単に自分の足が震えているだけのことだった。情けない、と他人事のように思う。ボブ・ディランを口ずさむ。

 

「椎名のやることは難しくないんだ」河崎はそう言っていた。たしかに複雑なことではなかった。どちらかと言えば技術的でもなかったし、誰にでもできることだった。

 

モデルガンを持ったまま、書店の裏口に立っていること。それだけ。ボブ・ディランの「風に吹かれて」を十度歌うこと。それだけ。二回歌い終わる度に、ドアを蹴飛ばすこと。それだけだ。

 

「店を実際に襲うのは俺だ。椎名は裏口から店員が逃げないようにしてくれ」河崎は言った。「裏口から悲劇は起きるんだ」当の河崎はすでに、閉店直前の書店に飛び込んで、「広辞苑」を奪いに行った。

 

店内から物音がした。僕は驚いて、右足をびくりと動かす。靴が雑草を踏んだ。何でこんなところに来たんだろう。

 

モデルガンを握り締め、ドアを蹴飛ばしながら、引っ越してきた日のことを思い出す。たった二日前のことだ。

 

 

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