「紅茶はいかがかな?」
「いただくわ」
帽子屋が私の差し出したティーカップに紅茶を注いでくれた。白いカンバスに赤褐色の染みが広がっていく。私はティーカップを口元で傾けた。
「あら、もうなくなったわ。まだ一滴も飲んでないのに」
「そのカップ、底が抜けてるよ」
あら、本当だわ。気がついたら私のティーカップの底が抜けていた。紅茶もすぐになくなってしまうわけだわ。みんなテーブルクロスが飲み干してしまったんだもの。
「おかわりはいるかね?」
「私は飲んでいないからおかわりではないわよ」
「おっと、これは失礼した」
帽子屋は帽子の鍔をくいっと上げて謝ると、テーブルクロスにおかわりはいるかと聞いていた。その後、紅茶をとぽとぽとテーブルにかけ始めたからきっと欲しいと答えたのだろう。
「やあれ、退屈だな。なにか話してよ」
三月うさぎが退屈そうに長い耳を弄んでいる。耳が蝶結びにされていくのを私は横目に眺めていた。
「三月うさぎ、私の耳を蝶結びするのはやめてちょうだい」
「だってよお、退屈なんだぜ。じゃあ、何か話せよ」
三月うさぎがぼやく。このままでは私の耳があやとりみたいにされてしまうわ。東京タワーが建ったらどうするつもりよ。
「ならば、吾輩が謎解きをひとつ差し上げよう」
帽子屋がもったいぶった態度で慇懃に話し始めた。帽子屋の謎解きは期待できない。答えがないことがほとんどだから。
「ある日、ハンプティ・ダンプティが落っこちた」
さて、犯人は、誰だろう? 帽子屋はにやりと笑って話を続けた。へえ、期待はできないけれど、紅茶のお菓子にはなりそうね。
思わずゾクッとする無感情の恐怖
「あんたら、相変わらずおかしなお茶会してるのね」
私が三月うさぎの家を訪れると、帽子屋と三月うさぎとヤマネがお茶会をしていた。いつもの光景である。
違うのは、どういうわけか、帽子屋と三月うさぎが私の顔をじいっと見てくることだ。ヤマネはいつも通り寝てしまっているけれど。よく寝れるわね、耳を蝶結びにされているのに。
「な、なによ。私の顔に何かついてる?」
「ああ、アリス。君はなんて白々しいんだ。ハンプティ・ダンプティを落としておいて」
ハンプティ・ダンプティ? 彼は私が落とさなくても勝手に落ちるじゃないの。私は首を傾げた。
ふと、目をやったテーブルの上に一冊の本があった。『アリス殺し』と書かれている。
「あら、小林泰三先生の本じゃない。あなたたちが本を読むなんて珍しいわね」
私は小林泰三先生の大ファンである。ホラー作家らしいおぞましさに満ちた描写はミステリでも健在だった。
「やっぱり、先生の作品は感情がないところがクールで最高よね。非現実的なグロテスクを淡々と描くところがたまらないわ」
『アリス殺し』は犯人の性格の悪さも絶妙だ。偽善のない、どこまでも悪辣な心理は読んでいて背筋をぞくぞくと凍らせる。
「あなたたちも『アリス殺し』を読んでいたなんて知らなかったわ。言ってくれればよかったのに」
今日のお茶会の話題は決まったわね。私は先生の話になるとお茶会が終わる時まで話せるわよ。さあ、語り合いましょう。スコーンの用意はよくて?
意気揚々と席に座る私に、帽子屋と三月うさぎは顔を見合わせた。ヤマネの平和そうな寝息が今はわずらわしい。
「いや……今日はもう、胸焼けしたよ。紅茶の飲み過ぎかな」
帽子屋はいつにない疲れたような表情でため息を吐いた。
二つの世界で巻き起こる事件
向こうから白兎が走ってくる。チョッキから時計を取り出す。「大変だ! 遅れてしまう!」
この兎が特別時間にルーズなのか、とにかく彼はいつもこの調子だった。アリスは呆れながら白兎を眺めた。
「ねえ。合言葉を決めておこうよ」
振り返ると、そこにいたのは蜥蜴のビルだった。間の抜けた話を延々としているビルは、ようするに、味方を見分けるために合言葉を決めたいらしい。
「まず僕が『スナークは』って言うんだ。そしたら、君は……」
「『ブージャムだった』」
目の前を家来たちと馬たちが叫びながら駆け抜けた。ハンプティ・ダンプティが塀から落っこちたらしい。
「女王様の城の庭だ」ビルの指の先を見ると、たしかにぐしゃっと潰れた何かが飛び散っていた。
ハンプティ・ダンプティの周りには二つの人影があった。近づくにつれ、それらの人影が三月兎と帽子屋のものだとはっきりしてきた。
「ハンプティ・ダンプティは殺されたんだ」
ああ。また変な夢見ちゃったな。栗栖川亜理はずるずるとベッドから這い出すと、目覚まし時計を止めた。
亜理が大学の研究室に着くと、建物内は妙に慌ただしかった。どうやら、中之島研究室の王子玉男が亡くなったらしいのだ。
しかし、亜理にとってはそのせいで実験できなくなる方が問題だった。学会発表に間に合わなくなる。
そこで、今日の実験の予約をしている人に代わってもらおうと考えた。その人は、名を井森健という。
結果的に代わってもらうことができなかったが、井森に代案を出してもらったことで、研究は問題なさそうだった。
しかし、どうやら井森は他にも話があるらしい。井森はゆっくりと口を開いた。
「スナークは」
亜理の全身に電撃のように悪寒が走った。井森は静かに亜理を見ていた。亜理は覚悟を決めた。その一言で、世界はがらりと変わった。
「ブージャムだった」
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