行く先々で姿を見せる黒い犬の影『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』J.K.ローリング


 どこか遠くから犬の吠える声が聞こえた気がした。それはただの幻に過ぎないというのに。

 

 

 ここ数日、私は眠れない夜が続いていた。おかげで、目の下には深い隈ができ、鏡に映る私自身のまるで骸骨か何かのようだった。

 

 

 何かが私の身に迫っていた。それだけは、わかる。しかし、それが何であるのか、私にはわからなかったのだ。

 

 

 ただ、わかるのは、それが得体の知れない何かで、到底抗うことができるようなものではないということだ。あるいは、それを人は運命と呼ぶのかもしれないけれど。

 

 

 犬の吠える声が聞こえる。こんな都会の、多くの人がひしめいている電車の中でそんなものが聞こえるはずがないというのに。

 

 

 だが、そんなことは関係ないのだ。当初こそ私も不思議に思っていたのだが、やがて私はそんなことに意味はないのだと気がついた。

 

 

 それは場所も、場面も、なにひとつとして関係なく聞こえるのだ。会社の中でも、寝ている時でも。

 

 

 犬の吠える声が聞こえる。まるで地の底から響いてくるような怖ろしい唸り声。私はその恐怖に震えあがった。

 

 

 過去へと流れていく窓の外の暗いトンネルに、うっすらと犬の姿が映った。黒く大きな犬だ。

 

 

 周りの客は誰ひとりとして気がついていないようだった。身を乗り出して窓の外を覗き込んでいる男の子ですらも。

 

 

 トンネルから電車が抜け出した途端、窓に映りこんだ犬の姿は消え去った。まるでそこには最初からなにもいなかったかのように。

 

 

 黒い犬の姿を見たのは今日が初めてではない。ここ数日、私はいろんなところでその犬の姿を目にしていた。

 

 

 はたして、幻覚だろうか。しかし、幻覚ならば、どうして見覚えもなかった黒い犬の姿を見るのか。

 

 

 疲れているのかもしれない。だが、犬の声を聞き始めて以来、眠れていないのだから、むしろ幻覚のせいで疲れているとすら言ってもよかった。

 

 

 ならばとなると、なおさら、幻覚や幻聴を聞くようになってしまった要因がわからないのだ。

 

 

 大通りを歩いている間も、ちらちらと黒い犬の幻覚が映りこむ。その視線はいつも私の方を向いていた。まるでいつ食らいつこうか狙っているかのように。

 

 

 ふと、その視線から逃れるように目を反らすと、高層ビルの隙間に挟まる裏路地の奥が目に止まった。

 

 

 そこにひっそりと佇む小さなお店。異様な雰囲気を放っているそこは、どうやら占いをしているようだった。私は導かれるようにそこに足を向ける。

 

 

黒い犬は不吉を運ぶ

 

「よく来たね」

 

 

 店の中は紫色の証明に照らされて、妖しげな雰囲気を醸していた。壁際には獣の骨や宝石が置かれている。

 

 

 円状の部屋の中心に座るのは、腰の曲がった老婆である。黒と紫紺のローブを身にまとい、尖った鼻が被ったフードから覗いていた。

 

 

「悩みがあるんだね」

 

 

 老婆は嗄れ声でぼそぼそと呟く。小さな声だったが、不思議と耳に何の妨げもなく滑り込んでくる。

 

 

 対面の椅子に座るよう勧めてくる老婆は、かすかに震えているようだった。私は促されるままに椅子に座る。

 

 

「実は」

 

 

「犬の声が聞こえる、かね」

 

 

 私が言う前に老婆が見通したかのようにそう言ったから、私は驚いた。所詮は眉唾に過ぎないだろうと思っていた老婆の存在が、途端に謎めいた存在に思えてくる。

 

 

 なぜわかったのか。そう問い詰めても、老婆は首を振ったまま答えない。閉じた睫毛がふるふると震える。

 

 

「黒い犬は不吉の前兆。それは不幸ごとが起こる前触れじゃ。黒い犬の幻は必ずといっていいほど災難に襲われるであろう」

 

 

 グリム。老婆はその黒い犬のことをそう言った。古くから言い伝えられている、いわば妖精のような存在なのだそうだ。

 

 

 老婆の身体が震えているのは、年齢によるものではない、恐怖によるものであると気づいた。

 

 

「あなたの未来には、おそらく遠からぬうちに不幸が訪れるじゃろう。その運命から逃れる術は、ない」

 

 

 老婆の言葉がどこか遠くで響いたような気がした。目の前に置かれた水晶玉に黒い犬が浮かび上がる。私はまるで目の前が暗くなったような錯覚を覚えた。

 

 

悪の帝王の手下が解き放たれる

 

 ハリー・ポッターはいろいろな意味で、きわめて普通ではない男の子だった。

 

 

 まず、一年中で一番嫌いなのが夏休みだった。第二に、宿題をやりたくて仕方がないのに、真夜中にこっそりやらざるを得なかった。そのうえ、ハリー・ポッターはたまたま魔法使いだった。

 

 

 プリベッド通り四番地のダーズリー一家こそ、ハリーがこれまで一度も楽しい夏休みを過ごせなかった原因だ。ハリーは伯父、叔母とのいざこさを、今はぜひとも避けたかった。

 

 

 ハリーはいろいろと普通ではなかったが、額にある細い稲妻型の傷は特に尋常ではなかった。

 

 

 ハリーの両親は闇の魔法使い、ヴォルデモート卿の手にかかった。ハリーもその時襲われたが、額に傷を受けただけでその手を逃れた。

 

 

 朝食に降りていくと、ダーズリー家の三人はもうキッチンのテーブルの周りに座って、新品のテレビを観ていた。

 

 

「ペチュニア、わしはそろそろ出かけるぞ。マージの汽車は十時着だ」

 

 

 バーノンおじさんは残りのお茶を飲み干し、腕時計をちらっと見た。ハリーは嫌な衝撃とともに現実世界に引き戻された。

 

 

 マージおばさんはバーノンおじさんの妹だ。ハリーは何度もひどい目に遭わされており、その恐ろしさはハリーの記憶に焼き付いていた。

 

 

 しかし、今回、ハリーは余計な行動をするわけにはいかなかった。バーノンおじさんに取引を持ち掛けたからだ。

 

 

 魔法の村、ホグズミートに入るためには許可証に保護者のサインが必要だった。ハリーが言うことを聞けば、許可証にサインが貰える。

 

 

 外の砂利道が軋む音がした。車のドアがバタンと鳴り、庭の小道を歩く足音がした。

 

 

 胸の奥が真っ暗になりながら、ハリーは戸を開けた。戸口にマージおばさんが立っていた。

 

 

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