さて、夜も随分と深まってきたところ、どいつもこいつも辛気臭い顔をしていらっしゃる。ここらでひとつ、あたしの話を肴にでもしてたっぷり笑って下せえ。こいつぁ、とある悪魔に魅入られた、ひとりの男のお話さ。
噓かまことか、ファウストという大層信心深くてお偉い年寄りの学者様がおりましたとさ。変わり者だが、なにしろ頭がいいもんで、村人たちからは慕われていたわけよ。
ところが、ファウスト博士自身はそんなので満足なんてしちゃあいない。村人からの名声も弟子からの尊敬も、彼にとってはチリ紙ほどの価値すらなかったのさ。
そんな彼はある日、一匹の野良犬を連れ帰る。ところが、だ。この犬の正体はメフィストフェレスとかいう悪魔だったのよ。
元の姿に戻った悪魔は、ファウストに契約を持ちかけた。「あんたにつき従って今まで見たことがないくらい面白いものを見せてあげやしょう。ただし、あんたがもし満足したのなら、今度はあんたがあたしの従者になってもらいますぜ」
ファウストは頷いて了承した。「よかろう。ならば、わしが刹那に向かって『止まれ、お前はあまりにも美しい』と言ったなら、賭けはお前の勝ちだ。何なりとするがいい」と、まあ、そんなことを。
悪魔に対してなんとも剛毅なことじゃないか、なあ。ファウスト博士万歳ってな。だが、彼の精神を大いに揺るがすことが起きたのさ。悪魔なんかの仕業じゃなく、ひとりの美しい娘によってな。
若返ったファウスト博士は、あろうことか、グレートヒェンという娘に惚れてしまうのさ。メフィストフェレスをこき使って、博士はどうにか彼女のハートを射止めようとするんだが、思わぬことが起こったのよ。
……ああ、ところで、そもそも事の始まりはどこかって話だ。ファウスト博士が犬を拾ったところか。だがね、偶然拾った犬が悪魔でした、なんてこと、あると思うかい。
いいや、違うね。メフィストフェレスはそもそも、ファウスト博士を堕落させようと狙って近づいたのさ。なぜかって。
かの天におわします神様がけしかけたのよ、悪魔をな。そもそも、これはファウスト博士とメフィストフェレスとの契約の話だが、それだけじゃない。神と悪魔の賭け勝負なのさ。
古来より神々や天使と悪魔ってのは対立しているとか言われているもんだが、なんとも仲の良いことじゃあねえの。お気に入りのおもちゃを巡って賭け勝負とか。
……実はね、あたしは思ってんのよ。神と悪魔はグルなんじゃねえかって。おっと、声が大きい。騒がれちゃあ、人に聞かれちゃうでしょ。気をつけてくだせぇ、キリスト教徒なんかに聞かれた日にゃあ、あたしの身体が火炙りだ。
いやね、ほら、「神が試練を与えてくださっている」でしたっけ。ねえ、でも、そんなら餅は餅屋でしょ、悪魔に任しといた方がよほど楽ですぜ。
だって、あいつらは人間に悪さするのが仕事なんだから。そんな悪魔のイタズラや誘惑を、そもそもけしかけているのは神様なんだって、そんな筋書きはどうだい。おもしろいじゃないか。あたしらを救ってくださると信じている神様があたしらをこんなに苦しめている元凶だってことさ。
そう考えると、ほら、傲慢で野心に満ちたからこそ身を滅ぼしたファウスト博士と、ずる賢いメフィストフェレスの物語も、また違ったように見えてきやしないかい。
神様が悪魔の裏で糸を引く黒幕さ。主は悪魔と賭け勝負をする。ベットは自分が眼をかけていた人間。かわいそうに、敬虔な神の信者だったファウスト博士は、その信じていた主自身によって堕落させられましたとさってな。
神と悪魔の賭け
太陽は、昔ながらの節で、兄弟たちの星の群れと歌い競い合い、その定まった旅の軌道を、雷鳴の歩みで今日もまた動いていく。不可解で崇高な宇宙の営みは、天地創造の日と同じに壮麗だ。
「これはこれは大旦那様、また見回りご苦労様で。ただ、いかがですか、この人間界の修羅の有様は。あいつらはあなたがおやりになった天の光の照り返しを理性と呼んで、どんなけだものよりも、もっとけだものらしく振舞うためにその理性を利用しているんです」
「いうことはそれだけか。地上のことは永久にお前の気に入らないのか」
「仰せの通り、大旦那、相も変わらず全然気に入りませんですな。人間どもが来る日も来る日も苦しんでいるのを見ると憂鬱です。意地悪をしてやろうという気がなくなるくらいなんだから」
「ファウストという男は知っているか。わたしが眼をかけている男だ」
「あの学者先生ですかい。あいつの御奉公ぶりときたら一風変わっている。沸き返っているあいつの胸を満たすものは、この世界のどこにもないのですな」
「今あれは霧中でわたしに仕えているが、ほどなく明るい堺へ連れて行ってやるつもりだ」
「何をお賭けですか。大旦那のお許しさえあれば、あの男をそろりそろりと私の道へ引き入れてごらんに入れます。まず、勝負はこっちのものだがなあ」
「あれがこの地上に生きている間は、お前が何をしようと差し支えない」
「しめた。というのが死人はどうもありがたくありませんのでね」
「よし、お前に任せておく。あの男の霊魂をその本源から引き離し、お前にそれがつかまるものなら、お前の道に引き入れてみるがいい」
「なに結構です、手間はかかりますまい」
「いいとも、いいとも、またいつでも気楽にやってこい。人間の営為は中道にして病みやすく、とかく無為を欲しがるものだ。それだからこそああいういたずら者を人間に添わせて、人間を突っついたり働かせたり、悪魔としての仕事をやらせておくのだ」
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