私は椅子に座って本を読む老人に、ちらちらと視線を寄越す。上品なベージュのコートに袖を通し、背筋をぴんと伸ばしたその姿は小さな本屋にはあまりにも不釣り合いだった。
しかし、それ以上に不可解なのは、彼が読んでいる本である。それは、いかにも少女漫画のような女性向けライトノベルだった。
毒舌の執事と型破りな令嬢の恋愛を描いた作品だったはずだ。それを少女が読んでいるのならば不思議でもないのだが、老紳士が読んでいるとなるとあまりにも奇妙に映る。
「もし。少し聞きたいことがあるのですが、いいでしょうか?」
それでも、と無理やり視線を外して仕事をしていると、気がつけば彼が近くまで来ていた。話しかけてきたから、私はにこやかに笑顔を向けて応じる。
「はい、なんでございましょう」
「ふむ、この本のことなんですが」
老人は片手に持った本の表紙を掲げるように見せてきた。一挙手一投足に一切の隙がない人だ。かつてはホテルのボーイとかでもしていたのかもしれない。
「この物語の舞台は戦前の英国、ですよね。そして、この女性は上流階級の令嬢、そしてこの男性はその女性に仕える執事。これは間違いないのでしょうか」
彼は手で表紙のイラストを指し示しながら訊ねてくる。私がそうですと頷くと、彼は難しそうな表情をして何か考えるように黙り込んだ。
「えっと、なにか、ありましたでしょうか」
「ああ、いえ。こちらに描かれている執事というものが、私の知る『執事』とあまりに違いましたので、つい」
動揺してしまいました。もちろん、ただの物語であるということは、理解しているのですが。彼はどこか恥ずかしげに眉を下げた。私は苦笑する。
「あははは……まあ、女性向けの恋愛小説ですからね」
戦前どころか二十代の女性のアマチュア作家が小説投稿サイトに投稿したものが書籍化したものだ。本格的な執事像なんて知るわけがない。そこには多分の女の妄想が好き勝手に込められている。
「でも、本当の『執事』って、どんな感じなんですか」
私は少し興味が湧いて、聞いてみることにした。すると、彼は懐かしむように遠い目をする。
「そう、ですね。私の知る『執事』は」
その視線はすでに私を見ていない。それどころか、この時代にすらもいないようだった。
失われた伝統
彼を見ていると、カズオ・イシグロ先生の『日の名残り』を思い出す。父の書斎で見つけた本で、私の記憶の片隅に微かに残っている。
イギリスの大きな屋敷で働く執事が、昔、同僚として働いていた女性に会うために小さな旅に出る。
彼はその道中で、その女性とのやりとりや、以前の主人のことに思いを馳せていくという作品だった。
当時の私は政治勢力や思想が関わってくる一面がよく理解しきれず、首をひねっていた覚えがある。
執事とミス・ケントンとのロマンスはときめいたけれど、どこか思い出を美化しているようにも感じられた。
しかし、そこに描かれていた執事は、最近の作品によくみられる偽物じゃなくて、間違いなく『本物』だった。目の前にいる老紳士のように。
「ここに描かれている執事は半ば付き人のような扱いをされていますが、執事は屋敷の全てを管理する使用人の長です。その役割は付き人とは異なります」
「仕えるべき主人に恋したりとか、そんなことはあったんですか」
私が聞くと、彼は困ったように少し考えてから答えてくれた。
「そういった執事もいたかもしれません。全ての執事を知っているわけではありませんので。しかし、その想いを面に出すことは決してないでしょう」
執事はいつ何時であっても、自分よりも主人のことを優先させなければなりません。主人に恋慕を寄せて主張することなど言語道断です。
「でも、同僚を好きになったりとか、身内が亡くなったりしたら、どうするの?」
「もちろん、執事としての責務を優先させます」
彼は即答した。彼にとってはそれが当然のことなのだ。しかし、私には、その自分よりも職務を徹底して優先する姿勢がどうにも歪に思えた。
「でも、それって、まるで人間じゃないみたいな扱いで、何か、嫌ですね」
しかし、彼は首を横に振る。今まで上品に、感情を大きく表さなかった彼の、初めて見た大きな動作だった。
「いいえ、それこそが一流の執事としての誇りなのです。主人への忠誠が何よりで、主人のためになれることこそが、執事にとっての何よりの喜びなのですから」
彼の瞳が強い輝きを宿らせている。それは、老木が潤いを取り戻したかのような輝きだった。
「あなたは、執事をしていたのですか?」
私の問いに、彼ははっと我に返ったかのように目を見開いて、気まずそうに視線を反らせた。申し訳ございません、と謝罪の言葉が聞こえる。
「昔の話です。ええ、もう何年も、昔の」
彼は視線を、自分の持っている本に投げかけた。彼の知る執事とは、大きくかけ離れた現代の執事。
「今ではもう、私の中にたしかにある英国人としての誇りも、主人に捧げた忠誠も、ただの名残でしかないのかもしれません」
彼はどこか寂しそうに呟いた。
かつての忠誠に思いを馳せる執事の回想
ここ数日来、頭から離れなかった旅行の件が、どうやら、次第に現実のものとなっていくようです。
ファラディ様の立派なフォードをお借りして、私がひとり旅をする。ひょっとしたら五、六日も、ダーリントン・ホールを離れることになるかもしれません。
この旅行の話は、もともとファラディ様のまことにご親切な提案から始まったことです。
その時、私はファラディ様のお申し出を真剣には受け止めませんでした。なんと申しましてもアメリカの方ですから、イギリスでのことを、まだよくご存知ではありません。
ところが、それから数日の間に、ファラディ様のお申し出に対する私の気持ちは一変し、頭の中では西武地方への旅という考えが大きく膨らみ始めたのです。
この急変の原因がミス・ケントンからの手紙にあることは事実です。ただ、誤解なきように願いたいのは、私は手紙で職業意識を刺激された、ということなのです。
ファラディ様から旅行の許可をいただき、ガソリン代の件も約束してくれて、西武地方への自動車旅行には、なんの障害もなくなりました。
もちろん、こまごまとしたことはあります。しかし、私が旅行を取りやめねばならないような問題は何ひとつ見当たりません。
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