社会が知らない最貧困女子の実態『最貧困女子』鈴木大介


 静かに、寝られる場所が欲しい。それが、彼女が私に言った、ただひとつのわがままだった。

 

 

 彼女は私のクラスメイトだった。乱暴で、問題ばかり起こす不良のひとりで、誰からも嫌われていた。

 

 

「あの子とは関わらないようにね」

 

 

 私の母はそう私に言い聞かせた。どうしてと聞いても答えは教えてくれなかった。ただ、母は罰が悪そうに、とにかくよ、と言っただけだった。

 

 

 私は疑問に思えてならなかった。彼女の他に、母からそう言われた子はひとりもいなかった。本当に彼女だけだったのだ。

 

 

 きっと、みんなも親から同じことを言われているのだろう。彼女と話そうとする子は誰もいない。彼女はいつだって一人だった。

 

 

 そんな彼女と、滅多に使われることのない女子トイレで出会ったのは、本当に偶然だった。あの時、近場のトイレがすべて埋まっていたのは、神様のイタズラだったのかもしれない。

 

 

「ハンカチ、使う?」

 

 

 私がそう言ったのは、彼女が洗った後の自分の手を服で拭いていたからに他ならない。私たちの他に誰もいない女子トイレで彼女との密やかな交流が始まったのは、そのひとことからだった。

 

 

 誰にも見られない秘密の邂逅。それは少なからず私を高揚させた。知られたらみんなからどんな目で見られるか、という恐怖すらも、高揚のひとつの材料だった。

 

 

 結果として、私たちの仲を知るような人は、とうとう誰もいなかった。彼女はその年の終わり、学校からいなくなった。

 

 

 母が彼女との交流を嫌った理由は、彼女の家庭にあるらしかった。彼女の母親はシングルマザーで、毎日のように違う男たちが出入りしていたという。

 

 

 彼女にはひとつの噂があった。彼女が中年の男と腕を組んで歩いていたというのだ。もちろん、その男は父親ではない。

 

 

 その噂の真偽はとうとう彼女の口から聞くことはできなかった。けれど、その噂は彼女に関する下世話な勘繰りへと繋がり、ますます彼女は孤立していった。

 

 

 彼女の身体には、無数の痣や傷跡があった。彼女の家では毎晩のように母や男の声が響いているらしい。時にその手は、彼女に向けられることすらあったという。

 

 

 彼女をどうにかしてあげたかった。彼女は紛れもなく私の友だちだったのだから。

 

 

 どうして母は彼女と関わるなというのだろう。どうしてみんなは彼女を見ないようにするのだろう。どうして先生は彼女を助けてあげないのだろう。

 

 

 彼女が悪いわけではないのに、みんなが彼女を見ないふりをする。本当に助けが必要なのは、彼女なのに。

 

 

 私は今でも思い出すのだ。何も欲しがらない彼女が、ただひとつだけ言ったわがままを。その願いを口にする時の、彼女の諦めきったような目の奥の闇を。

 

 

「静かに、寝られる場所が欲しい」

 

 

見て見ぬふりをして

 

 娘と手をつないで歩いていた時、娘がひとりの女性を見ていることに気がついた。

 

 

 その女性はどこか疲れたような表情をして、けれど、露出の多い格好で、道行く男たちに声をかけていた。

 

 

「見ちゃだめよ」

 

 

 彼女を見つめる娘の手を引く。娘の大きな瞳が私を見上げた時、私は思わずはっとした。

 

 

 社会のそこら中にある闇を見ないようにするのは、私たちがよくすることだ。公園のソファで眠るホームレスたち。ネットカフェで生活する家出少女。

 

 

 けれど、だとしたら、私たちはどうやって彼らを知るのだろう。彼らがどういった存在なのか、暗いベールを覗き込むのはいつなのだろう。

 

 

 鈴木大介先生の『最貧困女子』という本の内容が、頭の中に蘇る。現代日本とは思えないような、陰惨な現実。

 

 

 けれど、それはたしかに起こっていることなのだ。それなのに、私たちはそれが現実に今もあることすら知らない。

 

 

 いや、もしかしたら、私は彼らについて何も知らないのではないか。ただ、それが悪いものだと決めつけて、知りもせずに、ただ見ないようにしているだけじゃないのか。

 

 

 私と彼女は友だちだった。誰もが彼女を見ないようにしていた。けれど、私は彼女のことを知っている。

 

 

 彼女は苦しんでいた。みんなはそんな彼女を救うどころか、仲間外れにして、陰で悪意の捌け口にしていた。

 

 

 私は彼女を救いたいと思っていた。でも、私は彼女を救おうとはしなかった。それどころか、私がしたことは何だったのか。

 

 

 私は彼女との友情をひた隠し、知られることを怖れた。それは、私自身も彼女をそういう目で見ていたということにならないか。

 

 

 いや、もっとひどい。彼女を救うために動けるのは、彼女のことを知っている私だけだった。それなのに、私は自分のためだけに何もしなかったのだ。

 

 

 彼女の苦しみを見るだけだった。彼女の苦しみに同調して、同情しているだけで、意味のない慰めの言葉をかけるだけ。

 

 

 彼女を蔑んでいた社会そのものを悪と呼ぶならば、私はそれに輪をかけた卑怯者だ。救いを求める手をただ見つめるだけ、というのはあまりにも残酷な所業だろう。

 

 

 自分とは関係ない。凄惨な現実なんて見ない方がいい。そうやって視線を反らすのは簡単だ。それを知っていながら眺めているのは、もっと。

 

 

 けれど、それはたしかにそこにあって、その中で苦しんでいる人たちがいるのは、何よりも明らかなことなのだ。

 

 

 たった少しの勇気を出せばいい。私の友だちが心から欲しかったものを。男に煩わされない、親に殴られない、暖かくて、柔らかい、包まれるような静けさを。

 

 

最貧困女子の真実

 

 貧困とは何か。人は低所得に加えて「三つの無縁」「三つの障害」から貧困に陥ると考えている。

 

 

 困った時に支援してくれる家族・親族がいないこと。「家族の無縁」。親も貧困であれば頼ることはできないし、教育という自己資産を得られないことにもつながる。

 

 

 苦しいときに相談したり助力を求められる友人がいないこと。「地域の無縁」。

 

 

 社会保障制度の不整備・認知度の低さ・実用性の低さのこと。「制度の無縁」。これらがオーバーラップして人は貧困に陥るのだと考えている。

 

 

 一方で、三つの障害については「精神障害・発達障害・知的障害」と考える。これらの障害は「三つの無縁」の原因ともなっている、無視できない問題だ。

 

 

 「貧乏でも頑張っている人はいるし、貧困とか言ってる人間は自己責任」というもっとも無理解な戯言は、これで払拭できるはずだ。

 

 

 世の中には、目も当てられないような貧困の地獄の中でもがいている女性、そして未成年の少女たちがいる。

 

 

 「最貧困女子」。それが、僕が見てきたもっとも悲惨な風景だった。にもかかわらず、彼女らは常に差別と無理解と糾弾の対象だった。

 

 

 なぜなら彼女らの貧困、抱えた苦しみや痛みは、「可視化されていない」のだ。

 

 

 見えづらい、わかりづらい、面倒臭い、そんな「最貧困女子」を、忘れないでほしい。見捨てないでほしい。見下さないでほしい。

 

 

 彼女らの抱えた不可視の痛みと苦しみを、この本では可視化してみたいと思う。

 

 

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