重々しい社会の最下層をリアルに描く古典ファンタジー『アルク・ムンドゥス』猫弾正


 年老いた大魔法使いに予言された若き王は剣を手に取り、迫り来る闇の軍勢に立ち向かう。

 

 

 幼い頃、そんな本を読んだことを覚えている。幼少ながらにその輝かしい英雄譚には胸が躍ったものである。

 

 

 そこらに落ちている木の棒を手に持って、剣を構えるようにポーズをとってみると、自分がまるで強くなったように思えた。

 

 

 その頃の私ならば、ゴブリンも、オークも、ドラゴンも、果ては魔物を統べる魔王ですらも、瞬く間に倒していただろう。

 

 

 しかし、今ならばわかるのだ。何も知らなかったあの頃ならばできていたことが、知ってしまったがゆえにできなくなってしまったことを。

 

 

 本に描かれるような英雄のようには、私は決してなれないのだと。結局、私は凡庸なひとりの脆弱な人間でしかないのだと。

 

 

 英雄はどこまでも英雄であり、英雄らしく生きて。私はどこまでも私でしかなく、私らしく終わる。

 

 

 私はそのことを知ってしまったのだ。言い換えれば、大人になってしまった、と言えるだろう。

 

 

 かつて多くの騎士が英雄とともに戦った。だが、彼らはどこに行ったのだ。語られたのは英雄一人だけで、ともに戦ったはずの彼らは名前すらも出てくることはない。

 

 

 襲われて命を落とす人たちも、英雄とともに戦って散っていく騎士たちも、物語の上ではいてもいなくても変わらない。

 

 

 彼らはいわば語られるほどもない矮小な存在なのだ。英雄の素晴らしさを引き立てるだけの小道具なのだ。

 

 

 子どもの頃は誰もが英雄だった。今では英雄はほんのひとりで、他は誰もがそんな小道具に成り下がる。

 

 

 そのことを実感するのはこういうときである。私の手に持っているのがただの木の棒でしかないことに気付かされるのだ。

 

 

 ああ、英雄よ。英雄譚を作るのが我々ならば、作ろう。その輝かしい功績を讃えよう。だから、だから頼む。救ってくれ、私たちを。

 

 

 私たちは英雄ではない。英雄を引き立てるただの小道具でしかないのだから。役職にアルファベットがつくだけの儚い存在でしかないのだから。

 

 

 遠く山の向こうから暗雲が迫っていた。響いてくる怒号は絶望への足音である。おお、神よ、我らを救いたまえ。

 

 

英雄譚の陰に隠されたもの

 

 本棚の隅にひっそりと佇むその本を取り出した。表紙には『アルク・ムンドゥス』と記されている。

 

 

 歴史に艶然と残っている失われた空白の時間。誰も解き明かすことができないブラックボックス。

 

 

 その書物はその空白の間の歴史のことが記されている数少ない資料のひとつだった。

 

 

 しかし、英雄譚というわけではない。むしろ、その対極を代表するような書物である。

 

 

 アウナンの王。かつての暗黒の時代に、ただひとり、辛うじて名の残っている英雄である。

 

 

 彼はしかし、わずかに触れられているだけで、あとは取るに足らない、混沌に食われた女性の苦難に満ちた生活を描いている。

 

 

 それだけの資料だ。輝かしい英雄譚も、綺麗な物語もそこにはない。どこまでも泥臭く、あまりにも救いのない作品。

 

 

 迫り来る混沌の恐怖と、社会の奥底に横たわる現実の厳しさを描かれた、誰も幸せになれなかった歴史の残滓。

 

 

 だが、その話をこよなく愛する人たちもまた、多くいることは紛れもない事実なのである。

 

 

英雄譚に描かれない滅びの後の社会

 

 生まれ落ちたのは、絶望の時代だった。灰の匂いがした。焼け焦げた土地の残滓だ。

 

 

 漆黒の荒野が広がっていた。何もかもが焼き払われて、文字通りに何も残っていない。

 

 

 恐怖が大地を覆い尽くしつつあった。闇の勢力が大陸を席巻し、人々の嘆きと絶望が地を満たしている。

 

 

 今度こそ、救いはない。文明は打ち砕かれ、歴史は闇の中に消え去るだろう。そこまで考えて、セレナはすすり泣いた。

 

 

 だが、竜屠りし勇者でさえおびただしい混沌の軍勢の前には無力だったのだ。難民の娘に何ができよう。

 

 

 力が抜けて地にへたり込みそうになるも、歯を食いしばって立ち上がり、萎えた足を動かす。逃げてどうなる、と絶望が背後から囁いた。

 

 

 西方に名高き中央王国は、混沌の出現より、数刻で滅亡した。ほんの一年で文明と宗教を同じくする西方諸国の過半が滅びようとしていた。

 

 

 混沌の力は、およそ人の立ち向かえるものではない。混沌に魂を食われるのは嫌だった。

 

 

 そこに苦悶の表情を浮かべた人の顔を見て以来、セレナの夜から安眠は消えていた。

 

 

 荒野に朽ちかけた小屋に、老爺が寄りかかっていた。ゼイゼイと荒い息を吐きながら、空を見つめる目からは黒色の涙が零れていた。

 

 

「黄金……黄金を与えよう。我が言葉を耳に止めよ……使い切れぬ黄金を……」

 

 

 老人の喉よりか細い呟きが零れていた。時折、目の前を通り過ぎていくうちに足を止める者は誰一人としていない。

 

 

「……望みはある。南西へと向かえ。かの地にて、主の剣を探せ。誰か、彼の地に伝えよ。主の剣を探せと。誰ぞ。儂の言葉を……アウナンの王に届けてくれい」

 

 

 影を背負った少女が独り、溶けかけた老爺の前を通り過ぎた。最後の囁きに一瞬だけ色のない瞳を向けると、再び前を向いて地平へと歩き出した。

 

 

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