子どもの頃から赤ちゃんが欲しかった。愛する人との子どもを産んで、幸せな家庭を築くことが私の目指す幸せだった。
彼との間にようやく子どもができた時は、そうれはもう、嬉しかった。まるで胸の中に花畑が咲いたように。
妊娠がわかった時、思わず彼に抱き着いて泣いてしまった。彼は、そんな私の背中を優しく撫でていてくれた。
幸せだった。けれど、もうすぐもっと幸せになる。家族三人で、世界一幸せな家族になるんだ。あの頃の私は、そう信じて疑わなかった。
私は自分のお腹を見下ろす。ぽっこりと丸く膨らんだお腹。昔は憧れたそれが、いざ自分がなってみると、ひどく歪に思える。
動く気も起こらず、私はまた、ベッドに横たわった。妊娠してからは、仕事どころか家事すらも満足にしていない。
初期の頃にはひどかったつわりは今になってようやく落ち着いていたけれど、貧血がひどくてあらゆることが億劫になっていた。
私ができなくなった家事や仕事は、夫が頑張ってくれている。私に対しても、いろいろと手を尽くしてくれていた。
けれど、ふとした時に、彼の表情に、かすかな変化が起こるようになったことに気がついている。
彼の瞳に浮かぶ感情。それは忌避だった。彼は私の世話から解放されたがっている。そんな心情が透けて見えていた。
膨らんだお腹は幸せの象徴であると同時に、私が女として使い物にならないことの証明でもあった。
抱くこともできず、精神的にも体調的にも不安定で、時に辺り構わず当たり散らしながら、けれど、自分では何もしない。
彼が忌避するようになったのも、当然なのかもしれない。そう思ってしまうのも、いわゆるマタニティブルーというやつのせいなのだろうか。
けれど、それなら、彼の心が離れていっているように思うのも、私の妄想でしかないのか。わからない。わからないけれど、ひとつだけたしかなことがある。
子どもを授かるというのは、幸せな奇跡なのだと信じていた。けれど、私が求めていた幸せとは何なのか、今はもう、わからなくなっていた。
幸せとは
子どもを産む。かつての私だったなら、迷いもなく、そのことを喜んだだろう。自分のお腹にいる子どもの誕生を、無邪気に喜ぶことができたのだろう。
けれど、いつからだったか、子どもを授かった幸せよりも、不安が私の胸中に渦巻いていた。
産む時の苦しさ。ひどかったつわり。貧血からくる倦怠感。何もできないという苦痛。夫に任せていることの罪悪感。夫が離れていくことへの恐怖。
それらが私の心に暗い感情を押しつけていた。悪い想像ばかりが私の頭の中を巡る。
ため息が増えた。もうすぐ私は母になる。こんな私が。憧れていたはずの、自分が子どもを育てる光景が、今ではまったく浮かんでこなかった。
「これ、おすすめだよ」
憂鬱そうに日々を送る私を見かねたのか、夫が携帯小説を勧めてくれた。夫にしては珍しい恋愛もの。
望月麻衣先生という人の、『天使シリーズ』という作品群だった。『天使の鼓動』から読んでいく。
順調に読み進めていたけれど、五作目の『天使の奇跡』にさしかかると、ページをめくることができなくなった。
それは、可愛が妊娠したところだった。諦めていた我が子を思いもよらず授かって、戸惑い、不安になる彼女の気持ちが自分と重なって、思わず涙が出た。
そんな彼女にかけられる樹利の言葉は、私の胸にも深く染みこんでいくようだった。読み終わっても、しばらく涙は止まらなかった。
泣きつかれて、携帯を閉じてベッドに潜った時、今まで私の心に巣食っていた不安が軽くなっていることに気がついた。
私はお腹をそっと撫でる。今の私が辛いのは、このお腹に宿った子どものせいだと思ったことすらあった。求めてようやく手に入れた夢が、忌々しく思ったこともあった。
けれど、どれだけ辛くても、この子には私しかいない。私の子どもなんだ。そのことが、私の胸に実感として落ち着く。
ごめんね。私はそんな思いを込めて、ゆっくりとお腹を撫でた。お腹の奥から、子どもの小さな足が私の手を蹴る。愛おしくて、私は思わず微笑んだ。
新たな家族を授かる前に
季節は春を迎えていた。可愛は妊娠五か月となり、体調が安定したと同時に『マタニティブルー』を迎えていた。
きっと、この晴れない気持ちはホルモンバランスが変化した影響に違いないと思っている。
可愛は全身鏡を見ながら、目立ってきたお腹に手を添えた。ポコンと丸いお腹。それは幸せの象徴と言えるものだった。
可愛はもう一度自分の姿を見て、まるでダルマのようだ、と思わず目を伏せた。
妊娠が発覚して二ヶ月。あまりの体調不良から、誇りと自信を持っていた仕事を休むことになった。
貧血とつわりで家事を満足にこなせず、樹利に頼りきりになってしまっていた。何もかもができなくなり、気持ちが悪いと横になってころがっていた毎日。
妊娠を喜ぶ気持ちよりも、何もできなくなった自分を情けなく思ってしまうことも多く、そんな自分を責めてしまうこともあった。
妊娠を手放しで喜べないのは、樹利が思うほど喜んでいないように感じることも要因のひとつだった。
それは仕方ないか、私はずっと体調が悪かったから、喜びよりも心配ばかりかけさせているものね。
可愛は仕事をしている樹利とバイトに来てくれている菜摘に出すお茶の用意をして、作業部屋の前に訪れた。
「可愛さんに子どもが授かって、樹利さんも嬉しくてたまらないでしょう?」
作業部屋をノックしようとした時、菜摘の声が聞こえてきて、可愛は思わず聞き耳を立てた。
「すごく嬉しいけど、少し複雑な気分でもあって」
そう言った樹利に、可愛は目を見開いた。樹利が何か続きを話そうとしていることを感じ取ったが、聞くのが怖くて、そっとその場を後にした。
可愛はそっとショップを出て、洋館に戻った。ホールの大きな鏡の前に立ち、すっかり変わってしまった自分の姿に眉をひそめた。
いつでもどんな時も私を『女の子』として扱ってくれた樹利。でも、もう『女の子』ではなくなってしまったのかもしれない。
樹利は心から妊娠を喜んでくれていたわけじゃないんだ。発覚した時も手放しで喜んだわけじゃない。可愛は目に涙が浮かんだ。
やがて庭に現れた二人の姿を窓から確認したけれど、笑顔を作れる自信がなくて、そのまま二階の寝室に入りベッドに横たわった。
すごく気分が悪いので、寝室で横になってます。そう樹利にメールをし、枕に顔を押しつけた。すぐに階段を上がる音が響き、寝室に樹利が姿を現した。
樹利はすぐに可愛に歩み寄り、身体をさすろうとすると、可愛は咄嗟にその手を払った。
「触らないで。樹利は私の妊娠を心から喜んでいないんでしょう? 私のことなんて構わないで!」
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