あれから十年が経った。高校生だった私も、今では経理の仕事も手慣れたもの。それなのに、今でも彼のことを、まるで昨日のことのようにありありと覚えている。
彼に別れを告げたのは私からだった。二人で水族館に行って、その帰り、公園で座っていた時に、彼に伝えた。
その瞬間、彼は私が何を言っているのか理解できないようなきょとんとした表情をして、愕然としたものに変わり、そして哀しげで、怒っているような表情になった。
デート、つまらなかったのか。何か俺が駄目なことをしたかな。悪いところがあったなら直すよ。彼は眉を下げて、私に言った。本当に、心から思っている声だった。私の胸が痛くなる。
初めてのデートだった。今でも私の生涯の宝物だ。彼と手をつないで、魚が雄大に泳ぐ水のトンネルの中を歩いた感動は、今でも忘れない。
彼に問題はなかった。いや、むしろそれこそが問題だったのかもしれない。
恋人の欲目というわけでもなく、彼は顔がいい。同級生の中でも抜きんでて優れた容姿をしていた。
そのうえ、彼は女性に優しく、紳士である。学業も運動も優秀で、穏やかな気性は男女問わず人気が高かった。
そんな彼が、どう間違えたのか、私の恋人となったのは、我ながら不思議で仕方がない。
告白してきたのは彼からだった。席が隣ということもあって何度か話したことがある程度で、特別仲がよかったわけでもなかったから驚いたものだ。
頷いたのは私も彼のことが気になっていたからであって、彼の顔が近くて流されたわけではない。決してない。というか、彼のことを気にしていない女子なんていなかっただろう。
あまり言いふらす気もなかったが、気が付いたらクラスのみんなが私たちの交際を知っていた。どうやら、口の軽い子が告白の現場を見ていたらしい。
けれど、これがいけなかった。
私はどうやら、『抜け駆けをしない』という女子の中にあった暗黙のルールを破ったことになったらしい。
女の子は怖いもので、男子から告白されていたとしても、その矛先は女子に向けられる。
それまで仲がよかった友だちから無視や嫌がらせを受けるようになった。彼の高い女子人気が、そのまま私へのいじめの勢力となったのだ。
平穏に日常をひっそりと過ごしていきたかった私は、毎日のように続いてエスカレートしていくいじめにすっかり参ってしまった。
「あんたなんかが調子に乗ってんじゃないよ。彼とは釣り合わないんだから」
クラスでも一番派手な彼女の声が聞こえる。それは、水をかけられながら言われた言葉だったろうか。
まさしく、そうだ。私は彼にふさわしくなんてない。私自身、それを知っているじゃないか。
だから、彼に別れを告げた。私からの一方的な別れだ。彼に非はない。私がすべて悪いのだ。
彼と、ただの友だちに戻ってから、私はすぐに転校した。いじめてきた彼女たちと同じところにいたくはなかったし、何より彼と会うのが辛かったから。
彼と別れてからずっと、胸がずっと痛かった。彼の顔が忘れられない。その時、私は気づいた。私は彼のことが大好きだったのだ、と。
「好き」だけではいけない
『天使シリーズ』をもう『天使の再会』まで読んでいる私は、もう立派なファンだと言えるだろうか。
会社の先輩から教えてもらって、私はその海外のホームドラマのような作品に、あっという間にハマってしまった。もう何度も読み返している。
特に、『天使の再会』は何度も読み直していた。ネット小説でなく紙の書籍であったなら、もうよれよれになっているかもしれない。
美咲とシンが再会する場面は、それこそ暗記するほどに読みこんでしまった。何度読んでも胸がドキドキしてしまう。
それはきっと、自分と重ねてしまっているからかもしれない。私と、彼に。そして、読み終わった後は自分の浅ましさに呆れかえるのがいつものことだった。
十年経っても未だに昔の恋に引きずられているなんて、自分がこんなに女々しいとは思ってもみなかった。
彼と再会するなんてありえない。ここは物語じゃない、現実の世界なのだ。天使は私に会いに来ない。
彼の手を突き放したのは私だ。それなのに、その私がこんな我儘を言うなんて何様なのか。
十年経った今、彼はどんな青年になっているだろうか。きっと昔よりも逞しく、けれど、穏やかな気性は変わらないだろう。
いや、もしかしたら、もっと遊び慣れた感じになっているかな。大学でもさぞ人気があっただろうし。
そうそう、まさに、こんな感じの。私が頭の中で思い描いていたような現在の彼が、まさにそのまま目の前に現れて、私は思わず言葉を失った。
「やあ、えっと、久しぶりだね」
言葉を選ぶように手を軽く上げる彼に、私の胸が高鳴った。うん、なるほど、美咲はこんな気持ちだったのか。彼女の気持ちが、今わかった。
九年越しの再会
優れた翻訳をした者に贈られる『全日本翻訳家大賞』に受賞したという朗報が届いたのは、イギリスから帰国してすぐのこと。
外語大学の留学制度でロンドンに渡り、そのままロンドンの出版社に就職した私が、小さな書店で見つけた児童文学を翻訳し、出版に至るまで二年の歳月が経過していた。
その翻訳が認められて、日本国内の翻訳事務所から声がかかり、帰国して一週間。思わぬ朗報に、夢でも見ているのではと思ったほどだ。
授賞式は都内の高級ホテル最上階『飛翔の間』で行われた。集まったマスコミや、名の知れた文化人の面々に、美咲は驚きを隠せなかった。
ごくりと息を呑んで、隣に座る翻訳家たちを見た。賞には『一般』や『脚本』といろいろと部門があり、美咲は『児童文学』部門での受賞だった。
名前を呼ばれて、壇上に上がり、トロフィーを受け取る。フラッシュの光と、たくさんの拍手。すべてが現実のこととは思えず、地に足がついていない気がした。
もしかしたら、夢なのかもしれない。都合のいい夢を見ているのかもしれない。緊張と興奮からふわふわとした気分になり、さらに現実感を失わせた。
いや、やっぱり夢かもしれない。都合がよすぎる。
自分を認めてもらいたかった私。何か一つ『大きな証』みたいなものがほしいなんて、思っていたから、こんな都合のいい夢を見ているんだ。
近づいてきた、黒いスーツの、背の高い男性。驚くほどに整った顔立ちに、柔らかな表情。彼は周囲が振り返るようなイケメンだった。
「お久しぶり、美咲」
そう言って、屈託なく微笑む。ほら、都合のいい夢だ。
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