扉ひとつ。彼との間はたったのそれだけ。それなのに、それだけの距離が、こんなにも遠い。
彼が部屋に閉じこもってから数日が経った。こんなにも長いことは初めてだった。
病気にかかった時、彼は部屋にこもって誰にも会わないようにする。その癖を知ったのは一緒に暮らし始めてからだった。
内側から扉を閉めて、決して開けようとしない。会話はメールを介してするようにしていた。
メールでの文面は普段とは変わらない。いや、いっそ、普段よりも明るい口調で書かれている。それが一層彼の苦しみを表しているようで、私は哀しくなった。
初めてこの状況になった時は、涙をこらえきれなかった。扉の前ですんすん泣いた。
彼から送られた『大丈夫』というメール。きっと彼はわからないのだろう。私が泣いている理由を。
彼が部屋に閉じこもった時は声も聴かせてくれないし、顔すらも見せてくれない。どうしても外に出なければならない時には、夜中、私が寝静まってからひっそりと出ているらしい。
以前、同じように彼が風邪を引いた時のことだ。夜中、心配で眠れなかった頃に、寝室の外から何かが倒れるような音が聞こえたことがある。
おそるおそる見てみると、彼が暗い廊下で倒れていた。荒い呼吸を吐き出して、額には汗が浮かんでいた。
慌てて駆け寄って助け起こそうとすると、「だいじょうぶだから」と嗄れた声で言って、私の腕を無理やり振りほどいて部屋の中に戻っていった。
彼の風邪が治って部屋から出てきた時、彼から「風邪ひいている時の俺に触らないように」と叱られた。
彼は、その言葉がどれだけ残酷なのか、わかっていないのだろう。
彼が苦しんでいる。それなのに、私は彼を看病することもできない。ただ、身体にいいものを、部屋の外に置いておくことしか。
彼は私に何もさせてくれないのだ。近づくことも、声を聞くことも、顔を見ることも、できない。
したいのに何もできない、というのは、胸が張り裂けそうなくらい辛いことだった。
彼が私に移さないよう心配してくれているのはわかる。けれど、そのために彼がたった一人で苦しんでいると考えると、哀しくてやりきれない思いだった。
彼が閉じこもっている部屋の扉を見つめる。あのドアの向こうに、彼がいる。それは手を伸ばせば届くはずなのに。
手を伸ばして、ドアの取っ手に触れる。けれど。私は拳を握り締めて部屋から視線を反らした。こんなにも近くにいるのに、私はあなたを抱きしめることすらできない。
病める時も、健やかなる時も
ベッドにころがって、私はため息をついた。彼は大丈夫だろうか。そんな思いが、いつだって私の心にあった。
今回は今までよりも長い。だからこそ、心配は一層強くなっていた。私は風邪を引いていないはずなのに、苦しくて、胸が痛い。
気を紛らわせるために、小説でも読もうと思って、枕元に置いてあるスマホを手に取った。
開いたのは、最近読み始めた『天使シリーズ』だ。『天使の鼓動』から始まる長編シリーズ作品。
もう本編の最終章、『天使の黙示録』も読み終わって、本編後の番外編である『天使の午後』にさしかかっていた。
風邪を引いた樹利は部屋に閉じこもって誰とも会わない。以前、可愛がそう言っていたのを読んだ覚えがある。このショートストーリーは、その時の話を書いたのだろう。
風邪を引いた時には気が弱くなる、なんて言うけれど、自分の最期を悟るように語る樹利に、思わず息が詰まった。
思わず、彼の部屋の方を見る。この閉じ切った扉の向こう側で、彼も同じように不安になったり、最期を想像したりするのだろうか。
……私は何をやっているのだろう。彼が不安がっている時に、私はそばにいることもできないなんて。
私は自分の手元にある物語を眺める。雄太は樹利の制止を振り切って、木から伝って窓から入り、寝込む彼のもとに駆けつけた。
その姿を読んで、私はひとつの決意を決めた。ベッドから出て、立ち上がる。
彼の部屋のドアの前に立った。固く閉ざされているドアは、まるで彼の拒絶そのものを表しているようだった。
手を伸ばして、彼のドアをノックする。
どんな時でも一緒にいる。そう誓ったじゃあないか。形式とはいえ、その言葉に嘘はない。
大切だから自分が苦しくても守ろう、じゃない。そんなことをされても、ちっとも嬉しくなんてない。
苦しいなら、せめてその苦しみを和らげたい。移されていっしょに風邪を引いても、ひとりで苦しまれるよりはずっといい。
彼の想いなんて知るもんか。彼が私のためと言っているように、私もまた、彼のために何かをしてあげたいのだ。
それが、いっしょにいるってことだろう。
天使たちの後日談
こんなに近くに住んでいるのに、久々に菅野邸に訪れた。そう思いながら、雄太は学会で行ったタイの土産を手に、菅野邸の玄関のドアを開けた。
するとすぐに、「いらっしゃい、雄太君。タイはどうだった?」と笑顔の可愛が姿を現した。
雄太は土産にと買った珍しい香辛料の詰め合わせセットを差し出した。しかし、その笑顔に力がないことを雄太は不審に思い眉をひそめる。
「可愛さん、お疲れですか? 樹利さんはどちらに?」
可愛は弱ったようにしながら、目を赤くさせて俯いた。ただならぬ様子に、雄太が「何かあったんですか?」と声色を変える。
「……二階の奥の客間に閉じこもって、入れてくれないの」
客間に閉じこもって出てこない? あの樹利さんが? 解せない気持ちを抱きながら、二階に上がると、奥の部屋に続く廊下の途中に『進入禁止』と書かれた札と黄色いテープが貼られていた。
雄太は驚きながら、そのテープを跨いで、部屋のドアをノックした。しばし返答はなかった。
ドアがしっかり内側から鍵がかけられていて、外側からは開けられはしなかった。尋常ならぬ事態に、雄太の額に冷たい汗が浮かんだ。
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レオン・マクレガーは予定よりも一日早く日本に降り立った。待ちながら楽しみで、心なしか胸が弾む。やがて、その男、樹利が空港に姿を現した。
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可愛は姉から借り受けた高級マンションの部屋で、念願のひとり暮らしを始めた。外食をしようと向かった出口で、誰かとぶつかってしまう。その男を見て、可愛は目を見開いた。
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