スマホの液晶に書かれている文章を目で追っていく。もう何度も読んだはずなのに、まるで初めて読んだ時のように胸がどきどきする。
読み終えて、ほう、と思わず息を吐いた。満足と、興奮と、一冊の本を読み終えた後の独特の虚脱感が私の胸に溢れている。
望月麻衣先生の『天使の鼓動』と出会ったのは、私が高校生の頃のことだった。
まだ携帯を買ってもらったばかりの私は扱いに不慣れで、同じサイトばかりを見ていた。
その頃にはまっていた小説投稿サイトで、なんとはなしに読んでみたのが、その作品だった。
『天使の鼓動』は『天使シリーズ』と呼ばれている作品シリーズの、その一作目に当たる作品だった。
物語の中心となるのは、普通の女子大生である可愛と、大人気のカリスマモデル、樹利。
住んでいるマンションで出会ったところから始まる、息を呑むほどの美形と恋に落ちるラブストーリーだ。
ありがちと言えば、まあ、ありがちな展開なのだけれど、当時の私はそのストーリーにどっぷり魅了された。
私が好きなのは、やはりなんといっても主人公の二人、可愛と樹利だ。
信じられないほどの美形で優れた才能を持つ樹利と、平凡な女子大生だけれど努力家の可愛。
まったく違う二人なのに、どうしてだか二人が揃うと安心感があって、なんだかほっとする。
可愛の健気に努力する姿はなんともいじらしくて、思わずがんばれって言ったくなっちゃう。樹利との仲が上手くいっていない時は、拳を握ってしまうくらいに。
問題が解決した時にはほっと息を吐く。これほどまでに物語に没入したのは初めてのことだった。
樹利や可愛の言葉は迷っている私の背中を押してくれる。当時、いろんなことで悩んでいた私は、救いを求めるようにその作品ページを開いていた。
『天使の鼓動』はまさに私の青春そのものと言ってもいい。私は高校時代をその作品と過ごしてきたし、その作品からたくさんの勇気をもらった。
こんな恋をしてみたい。まず無理だろうということはわかっているけれど、互いに想い合っている可愛と樹利は私の理想の姿でもあった。
まあ、もちろん、私の恋が上手くいった覚えなんてないけれど。最初にできた恋人とは、ひどいケンカ別れをした。
それだけ気に入っていた作品を、思い出したのは最近のことだ。ページを開くのは十年ぶりくらいだった。
どうして急に思い出したのか。それは、最近、気になる人ができたことがきっかけなのかもしれない。
違う世界なんてない
それは数日前のことだ。私がひとりで外食を楽しんでいると、若い男に声をかけられた。
彼は頬が赤く、どこかふらふらとしていて、言動も支離滅裂だった。呂律もまともに回っていない。
ナンパなんてされたのは初めての経験だった。しかし、右と左の区別もわからないくらいに酩酊している男の誘いには、応じようとは思わなかった。
だから断ったのだけれど、すると、彼は、突然逆上して拳を振り上げてきたのだ。
その拳が振り下ろされるのを想像してしまって、恐ろしさに私は思わず目を閉じた。けれど、いつまで経っても予想していた衝撃が来ない。
恐る恐る目を開いてみると、男が振り上げた拳を誰かが掴んで止めているようだった。
精悍な男性である。若い男は叫びながら振りほどこうとしているが、上手くいかないらしい。次第に、怯えるような表情になってきた。
なんだよ、と舌打ちをして若い男は去っていく。助けてくれた男性は、「大丈夫でしたか」と優しい声で私に言った。
ときめいた。いや、もう、単純だと笑ってくれ。助けてくれた時の力強さと、打って変わった優しさに満ちた声。
人を好きになったのは久しぶりだった。かつての上手くいかなかった恋が、胸の中に蘇ってくる。
喧嘩の原因は私の自信のなさだった。彼は女子に人気のある運動部の部長で、私は女子からよくやっかみを受けていた。
釣り合わない。当時の私が感じていたのは、その感覚だった。彼は自分とは別の世界の人間で、自分のような地味な女子が恋人であることはずっと引け目に感じていた。
あの頃は、それが原因で卑屈になっていた。そのせいで喧嘩になって、別れたのだ。けれど、今は違う。そのことを私は知っている。
違う世界の人間なんていない。相手との間にどれだけの差があっても、互いが好きであればそれでいい。
周りの目なんて気にしなくていいじゃないか。誰が何と言おうとも、好きなものは好きなのだから。そこに嘘なんて吐けない。
お金や、仕事や、学歴。私たちはいろんなことを気にして、気にしすぎて、未だに自由になれていない。
本当は、世界なんて単純なんだ。人と人との差なんてない。私たちが勝手に、その差があるから一緒になれないと、難しく思い込んでいるだけ。
私はもう、気持ちを偽らない。『天使の鼓動』は大切なことを教えてくれた。決意をぎゅっと抱きしめて、私はスマホの番号を押す。
遠い世界の人間だと思っていた人が、こんなに近くに
二十歳になって間もなくの頃、可愛は念願の一人暮らしを始めた。姉が留学することになり、姉が住んでいた都内の高級マンションに住まわせてもらえることになったのだ。
友人の菜穂と正樹に引っ越しの片づけを手伝ってもらう。ひと段落して、三人で焼き肉を食べに行くことになった。
部屋を出て一階エントランスロビーに降り立つ。ピカピカに磨かれた大理石の床と高価な美術品が飾られた壁、きれいに並んだくつろげるソファー。
二人の背中をポンッと叩いて、軽い足取りで駆け出し、勢いよく飛び出した。
その瞬間、マンション内に入ってこようとしていた男性と真正面から衝突し、可愛は弾かれて尻もちをつく。
慌てて謝ると、彼は「いえ、こちらこそ」と言って座り込んだ可愛の前にスッと手を差し伸べてきた。
申し訳なさを感じながらも、その大きな手を取って身体を起こし、顔を上げ、彼の姿を目の当たりにした瞬間、言葉を失った。
スラリとした長身に均整の取れたスタイル。冷たさも感じさせるきれいな顔立ち。息を呑むほどの美形がそこにいた。
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