その時の光景を、私は二度と忘れないだろう。私はその時、たしかに見たのだ。彼女の背に、二対の白い翼が開くのを。
彼女と初めて出会ったのは、私が幼い頃だった。私がまだ、自分に与えられた名前以外に、何も持っていなかった頃のことだ。
幼い頃、私が孤児院にいたことを知る人はそう多くない。マネージャーは私の過去を『口外してはならない』と厳命した。
だから、これは私の心の中にだけ、ずっと秘めてきたことだ。きっとあなたは、信じないだろうけれど。
孤児院にいた頃の私は、痩せぎすで、目つきの悪い子どもだった。愛想もないから大人からも嫌われ、同じような境遇の子どもたちにも友だちはいなかった。
私の母は私をこの孤児院に預け、「また必ず迎えに来るから」と言い残した。そして、二度と姿を現すことはなかった。
だから、私に会いたいと言っている人がいる、と呼び出されたときには、内心では困惑したものだ。私を見下ろしている世話役の目にも疑問が渦巻いていた。
母、なのかもしれない。期待とも不安ともつかない感情が、私の胸を焦がしていた。
あの日から、自分を置いていった母をずっと憎んでいた。どれだけ恨み言を心の中に収めてきただろう。
そんなことを思いながら、かすかな期待と、不安と、憎悪を抱いて、私は面会の場へと歩き出した。
そうして出会ったのが彼女だった。美しい女性だった。優しい雰囲気なのに、どこか異質な迫力を持っていた。
「あなたね」
彼女はそう言って、私を抱きしめた。彼女の柔らかい腕の中で、私はただ、言葉もなく立ち尽くしていた。
私の記憶の中にいる母と、彼女は似ても似つかない。別人だった。ならば、いったい、彼女は自分の何なのだろう。
天使の正体
「お母さんじゃなくてごめんね」
彼女はそう言って、謝ってきた。事情が呑み込めない私に、彼女は説明してくれる。
私の母は亡くなっている。そう聞かされた時、私の心を襲ったのは、激しい動揺と喪失感だった。
あれほど母のことを憎悪していたのに、いざそう聞かされると、目から涙が溢れてくる。
母が私を預けたのは、その当時、借金に苦しんでおり、このままではこの子を護れないと悟ったから、だそうだ。
そんなのは言い訳じゃないか。私はそれでも、お母さんと一緒にいたかった。絞り出すようにそう言った私を、彼女は黙って聞いていた。
あなたから見たら、そうかもしれない。あなたのお母さんがあなたを手放したのは、事実だから。
「だけど、あなたのお母さんはあなたのことを本当に愛していたわ。憎んでもいい。でも、そのことを、せめて知っておいてほしいの」
母はいつも、私のことを話していたそうだ。そして、私が母のことを憎んでいるだろうとも言っていたらしい。
私を孤児院に預けた後、母はどうにか職を得て、懸命に働き、借金を返しきった。生活も安定してきて、これでようやく迎えに行けると笑っていたらしい。
そんな矢先の不幸な事故だった。話してくれている彼女も、そして私も、互いに目に涙を浮かべていた。
「私はあの人に命を、ううん、命よりももっと大切なものを救われたの。あなたのお母さんは、私の誰よりも大切な恩人なんだよ」
彼女は、そんな母が愛していて、そしてとうとう最後に出会うことすら叶わなかった私のことを気にかけていた。
このままでは、彼女の最期の願いは、私に届かないままに終わってしまう。いつまでも、迎えに来ない母を憎みながら、生きていくことになってしまうだろう。
そう思った彼女は、母に対しての恩を返すべく、少ない手掛かりから孤児院を巡り、そして、とうとう私のことを突き止めたのだという。
「あなたの顔を見て驚いたわ。本当に、あの人にそっくりで」
そう言って涙を浮かべる彼女に、私は複雑な思いだった。彼女は私の母のために、私を必死に探していたのだ。私は母を憎んでいたのに。
その後、彼女が言った言葉に、私は目を見開いた。
「ねえ、もしよければなんだけど、私の家で暮らさないかな?」
そう言って、私に手を差し伸べてきた彼女。その背後に、もうひとり、別の女性が立っているように見えて、私は思わず現実を疑った。
それは見覚えのある顔をしていた。背中に二対の羽が生えているその顔を、私はずっと焦がれていたのだ。
お母さん。私は思わずそう呟いた。彼女の差し伸べた手に、震える手を乗せると、彼女はそれをしっかりと握り締めてくれた。柔らかく、温かい手だった。
そうして彼女に引き取られた私は、紆余曲折を経て今に至る。とんだシンデレラストーリーもあったものだよね。
その顔は信じていないね。まあ、仕方のないことだけど。私はあの時、確信したんだ。天使は本当にいるんだって。
それは人の心の中にいるんだよ。人は誰もが心に、二対の白い翼を持っている。もちろん、あなたの中にも、ね。
二人の幸せな生活に飛び込んできた新たな家族
樹利と可愛が横浜の洋館に移り住み三ヶ月。季節は春を迎えていた。
二人を囲むのは北欧を思わせるナチュラルな家具に、淡い色彩の壁。大きな窓からは眩しい朝日が差し込み、手入れの行き届いた美しい庭、そしてエキゾチックな横浜の街並みが見渡せた。
樹利がフィレンツェから帰国したのは昨年の秋。その後、すぐに開店準備に取り掛かりクリスマス前にオープンパーティーをした。二人のお店『アリス』がグランドオープンしたのは、年が明けてから。
開店前から業界でかなり評判になっていたらしく、オープン一ヶ月前にネットで予約を開始すると、瞬く間に予約表は埋まっていった。
おかげさまでショップ『アリス』は盛況で、日々充実した忙しい日々を送っていた。
ここに訪れる人はこの洋館を眺めながら坂を登り、ふと振り返った時街並みの向こうに青い空と海のパノラマが目に飛び込んでくる。それはまるで心を鷲掴みにされるような、見事な景色だった。
再び坂を登り、開放されたこの家の門をくぐると、イギリスのガーデンを思わせる庭が客人を迎えた。まるで絵本の世界に足を踏み入れたみたいだった、と話してくれた人もいた。
世の喧騒から外れた、心を癒す場所だと感じていた。可愛が庭を眺めていると、樹利はゆっくりと隣に立ち、優しく肩を抱いた。
「さっ、今日一日、がんばろうか」
二人は奮起するようにハイタッチをし、洋館を出て、敷地内のショップ『アリス』に向かった。
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自分の夢を叶えるため、樹利は技術を学びにひとりフィレンツェへと旅立つ。その間、可愛は自分を試すため、人気俳優のマネージャーのバイトを始めることになった。
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可愛は姉が住んでいた高級マンションの部屋を譲り受けて、憧れのひとり暮らしを始めた。そのマンションの入り口で出会ったのは、美貌のカリスマモデル、樹利だった。
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