二度と会えないわけじゃない。自分にそう言い聞かせる。けれど、遠ざかっていく彼の背中に駆け寄って抱き着きたかった。私は呆然と、小さくなっていく背中を見つめ続けた。
彼が学びたいことがあるからと言って海外へと行ってしまって、どれくらいの時が経っただろう。
彼と付き合い始めたのは、私たちが大学生の頃だった。彼から告白されたときは、嬉しさのあまりに思わず泣いてしまった。
彼は大学の同期で、取る授業が重なることが多く、自然と話すことが多くなっていた。
いつも無愛想で、冷たい言い方をしているけれど、それは彼が口下手で、感情表現が苦手だったからだ。
その代わり、彼は文章を書くのが上手かった。彼が書いてくれた物語は感情豊かで、普段から彼の中に秘められていた魅力が溢れている。
彼のファンの第一号は私だ。けれど、次第に数が増え、賞を取るまでになった時は、嬉しい反面、まるで彼が遠い存在になってしまったみたいで寂しくなったものだ。
だからこそ、彼からの告白は本当に嬉しかった。そこから始まった恋人としての時間は本当に幸せだった。
けれど、それは長く続かなかった。
彼はストイックな性格で、物語を書くことに対して並みならない情熱を抱いていた。食事もとらずに二日ほど部屋にずっとこもっていたことすらある。
海外に行きたい、というのは、作品作りの一環らしかった。
「どうしても実物が見たいんだ。そんな時に、先生から提案された。俺ひとりなら、連れていってもいいって」
ごめんな、お前を置いていくことになる。でも、俺は行かなきゃいけないんだ。彼はそう言って頭を下げた。
いいよ、行ってきて。私は大丈夫だから。私の口が勝手に動いた気がした。まるで心のない人形になったかのような。
嫌だ。嫌だ。お願い、行かないで。心の中の私が髪を振り乱して叫んでいた。今にもその声が私の口から零れ落ちそうだった。拳を握り締めて、無理やり笑顔をつくる。
ありがとう。彼がそう言って部屋に戻っていった瞬間、張っていた糸がぷつんと切れた気がした。
声を出しちゃいけない。彼が気付いてしまう。私は枕に顔を埋めて声を殺しながら泣き続けた。
彼が旅立って、一年が経っていた。三日に一度は必ず、彼からの電話があった。彼からの電話があることに、毎回のようにほっとしていた。
彼が浮気するとは考えていないが、彼とのつながりは電話しかない。電話がかかってこなければ、私と彼をつなぐ糸は切れてしまう。
ほら、こんなに頼りない。私と彼とのつながりは、あまりにも細く頼りない糸の上に成り立っている危ういものだった。それが私には何より怖ろしく、そして寂しかった。
彼に触れたい。彼の広い胸の中に飛び込んで、抱きしめてほしい。けれど、その願いは叶わない。
彼がいない毎日は、灰色だった。彼の夢は応援している。けれど、どうしようもなく寂しい。泣こうにも、もう流す涙すらも枯れ果てている。
二人の距離
彼がいない寂しさを誤魔化すために、私がのめり込んだのは読書だった。もともと本を読むのは好きだったけれど、彼がいなくなってからは、さらに。
私が今、スマホの画面を食い入るように見つめているのは、ネット小説を読んでいるからだ。
近頃は、望月麻衣先生の『天使シリーズ』にどっぷりはまっている。今はその三作目である『天使の試練』を読んでいるところだった。
自分に足りない技術を身につけるためにフィレンツェに行く樹利と、日本に残った可愛。
その境遇はどこか、今の私と彼に重なる。思わず、食い入るように画面を見つめてページをスクロールしていた。
可愛は樹利がいない間、甘やかされないようなところで成長しようと思い、卓也の伝手で人気子役のマネージャーのバイトをすることになる。
瀬口リオン。人気子役として力量は高いのに、乱れた生活を送る彼に、可愛は戸惑いを覚えながらも、彼と向き合っていく。
私は夢中になって読み進めた。思えば、彼がいない間、私は何をしていただろう。ただ、寂しさに悶えながら無意味に日々を過ごしていただけだ。
可愛もまた、寂しいはず。それなのに、彼女は自分もまた新しいことを学ぶために知らない世界へと飛び込んでいった。
私は何をやっているんだろう。思わず、そう呟いた。似たような境遇の可愛は前向きに未来を見つめているのに、私は過去を嘆いているだけだ。
後ろ向きで、ちっとも前には進んでいないじゃあないか。腐って、いじけて、泣いていただけだ。彼の夢を応援するとか都合の良いことを言いながら、私は彼を恨んでいたんじゃないのか。
なんでもいい。新しいことを始めよう。もしも、彼が帰ってきた時に、彼に泣き腫らした目を見せたくないから。笑顔で、胸を張って抱き着きたいから。
新しい門出のために、二人に訪れた試練とは
ニューヨークから日本に戻った樹利と可愛は、二人で横浜に向かっていた。以前、樹利の祖母が住んでいた洋館を見るためだった。
二人は表舞台から退き、小さなお店を開いて、地道に続けていこうと決めていた。そのお店として、祖母の住んでいた洋館を使わせてもらおうと考えていた。
窓の外を眺めていると、車は賑やかな街中を駆け抜け、閑静な住宅街へと入っていった。街から少し離れた小高い丘の上に、その洋館があった。坂道の途中からも目につく、白い洋館に広い庭。
森の中にひっそりと佇むような印象を与えるその洋館は、そこだけ見ると外国の風景のようだった。
外観は白い壁にレンガの煙突がかわいらしく、六角形に飛び出た外壁に縦長の大きな窓が三枚設置されていた。
何より景色が素晴らしかった。広い庭から臨む真っ青な空に、そのままつながる海の景色とエキゾチックな横浜の街並み。
「可愛、これからこの家の修繕改装と、庭に小さな店を作ることになるんだけど、少なくても半年はかけたいんだ」
樹利はしっかりとした視線を可愛に向けた。
「トータルでファッションを提供していくのに、自分にはまだ足りない技術があるんだ。俺はそれを身につける最終段階に入りたいと思ってる」
樹利が身につけたい技術。それは靴作りだった。彼はその技術を学ぶためにフィレンツェに行くことを考えていると告げた。
フィレンツェと聞いて目を輝かせている可愛に、樹利は首を横に振った。
「可愛は連れていけない」
一瞬、何を言われたかわからず、目をぱちくりさせた。
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樹利とともに、可愛はニューヨークを訪れる。慣れない新天地での生活で戸惑うことも多いながらも、二人は力を合わせて危機に立ち向かっていく。
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